第三十七章第二節<闇の業>
王冠を掲げた野鳩の姿をした英霊、
それを耳にした綾瀬と宗盛は、激しく感覚神経がかき乱される違和感に襲われる。三半規管が混乱を来たして膝をつき、あるいは視覚神経が一時的に断絶して視界の中に灰色の靄が生まれる。
複数の動物の発する鳴き声を同時に発声するような、奇妙で、しかも恐るべき魔力を秘めた英霊の鳴き声。
本来、ゲーティアに叙述の見られるこの英霊は、「しわがれた声で話す鳥の姿をする」と言われ、召喚した者のために金を盗み、隠された財宝を暴くといった願望をかなえる力を持つ他に、呪術的側面として対象者に盲、聾、唖といった感覚障害を引き起こすといった魔力があるとされていた。
攻撃の態勢が崩れたところへ、正光の傍らにいたもう一つの英霊、
先刻の手傷の恨みを晴らすというのか、まだ出血の止まらぬ鼻梁に皺を寄せ、前肢の横薙ぎの攻撃をまずは綾瀬に、そして宗盛を翼でしたたかに打ち据える。恐るべき体格差から繰り出される膂力は凄まじく、二人の躰はまるで人形のように吹き飛ばされた。
短いうめき声を上げる二人を、岩の高みからシャックスは首を傾げつつ、見下ろしている。
「くそ!」
あの野鳩の魔力は、二人の予想を大きく違えていた。純粋に戦闘能力だけを推し量っていた二人は、まさかこのような戦闘補助の魔力を持つ英霊が召喚されるなど、思っても見なかったのである。
あれがいる限り、自分たちは剱技を尽くして戦うことが出来ない。そしてそれは、圧倒的な戦闘能力を持つ
華神正光という男を、いささか侮っていたか。よろめきつつも立ち上がる二人に、正光の侮蔑を込めた嘲笑が降り注いだ。
「ほらほら、どうしたんだ? この私が憎らしくてたまらないんじゃなかったのか?」
瞳に異常な意思を込めたまま、睥睨する正光は、自分の駆る圧倒的な力に酔い痴れていた。
これだ。この力。この魔術こそが、私に再び力をもたらしてくれた。
決して、手放してなどやるものか。常に自分を哀れむような、憐憫の情を傾けていた奴に、負けてなどやるものか。
正光の意志を反映したかのように、
肋骨が軋みを上げ、肺が新鮮な空気を求めて悲鳴を上げ、綾瀬の喉から空気が漏れる。立ち向かおうとした宗盛であったが、上空から礫のようなシャックスの羽根を浴び、思うように動きが取れぬ。
「しかし、お前らは前菜に過ぎん。このまま殺してくれる」
英霊の肢を押し返しつつ、綾瀬は何とか呼吸をするための空隙を確保する。
しかしこのままでは、不利であることに間違いない。
「てめえ、同じ日本人なんだろうが……どうして……」
「同じ日本人?」
ぎろり、と正光の瞳が綾瀬を捉えた。声色自体が変調するような、異様な気配が正光に宿る。
「貴様を見ていると、虫唾が走る……武家など、この時代遅れの世の中では死に絶えるべき存在なのだッ!」
英霊が顎を接近させ、卒倒するほどの臭気が綾瀬を包む。無数の裂傷を負いつつも、疾走する宗盛は、だが背後から接近する英霊の爪によって持ち上げられ、遥かな高みから岩塊に叩きつけられる。
額が割れ、乾いた岩肌にどろりとした血が染む。
「てめえ……!?」
そこまで武家を怨む理由が、綾瀬には分からなかった。
「我に歯向かう武家など許さぬ。この力を以って、
二体の英霊を使役する印章を両手に幻視し、正光は堪えきれぬ笑いに肩を震わせた。
「あの男は、まだ生きているのだよ……家を捨てたにもかかわらず、この私をずっと嘲笑ってきた、あの忌まわしき男はなぁ」
ずるりと舌が伸び、乾いてひび割れた唇を舐める。
とてもではないが、正常な神経ではない。精神に異常を来たしているのは、誰の目にも明らかであった。
「その力で、てめえは何をしやがるつもりだ!」
「無論、殺すのだよ。我に歯向かう者を全て、手始めには貴様ら、そして」
ぎりりと拳が固められ、そして掌に爪が食い込む。名を口にするだけで、積年の怨念が身を蝕むか。
「光照めェ……あの男だけは……冥府の底でまで呪ってくれようぞ……!」
光照、という名を耳にした綾瀬が、一瞬だが気を逸らされたときであった。
それまで自分を押し潰そうとしていた前肢が緩み、そして頭上から爪を振り下ろしてきた。対応が僅かに遅れ、肩を裂かれ、血が噴き出す。まるで刃の埋め込まれた棍棒で殴られたかのような衝撃に、綾瀬はそのまま地に伏した。
光照。
高坂志郎光照。
あの、吉原の用心棒をしていた。
てめえの言ってた弟ってなぁ、こいつのことだったのか。
てめえが嫌気が差して、家を捨てたって、いつだったか酒の席で珍しく酔ったお前が、愚痴を零してたっけなぁ。
てめえが酔ったなんて、後にも先にもあれっきりだ。
てめえが本当に酔ってたかどうか、それだって疑わしいもんだがよ。
てめえには、いろいろ世話ンなってたしなぁ。
ぐいと地を圧して立ち上がる綾瀬。その視界の先で、正光は天を振り仰いでいた。
喉も裂けよと言わんばかりの絶叫を以って。既に正光の精神は、割れた鐘のような不吉な音を響かせているに過ぎない。
「偉大なる諸力によって喚起されし汝を、我は求めんッ!」
くそったれが。
三体目の英霊か。視界の隅で、顔面を血染めにした宗盛もまた、立ち上がった。
「我、五芒の名によりて汝に命ず、豊潤たる大地の守護者を追われ、失墜の玉座にて苦悶せし汝、アーシュ……」
詠唱が途切れた。
二体の英霊は、その変調を見逃さなかった。ぴくりと顔を上げ、それまでに弄んでいた二人から、正光に顔を向ける。
「アーシュ……タロ……あ……あぁあああッ」
顔面が、悪鬼のように歪んでいく。その隙に、二体の英霊は正光に飛び掛っていった。
支配力の途切れた術師に対し、それまで使役されていた英霊は容赦しなかった。岩に組み敷き、牙で肉を裂き、爪で眼球を抉り、嘴で臓腑を食らう。次第に薄れ行きつつ、英霊は最後の瞬間まで正光を食らっていた。
断末魔の悲鳴は、ついに一度として上げられることはなかった。
見るも無残な屍骸と成り果てた正光だった肉塊を見下ろし、綾瀬はただ黙っていた。
自らの欲望が招いた、自らの業によって敗北した者の姿。
もしここに光照がいたら、どのような顔をしていたのだろうか。
いくら怨みがあるとはいえ、普通は肉親をそこまで怨めないものだよなぁ。どんなにいがみ合っていたって、親は親、兄弟は兄弟だ。まあ、それを俺が語る資格なんざ、ねえんだろうがな。
「泣いているのか」
いつの間にか、すぐ近くまで来ていた宗盛の声がした。
その声に我に返った綾瀬は、はじめて頬を濡らす滴りに気づいた。だが、それを拭おうとはしない。
「なぜ、お前が泣く」
「どうして、こいつは死んだんだろうな、って思ってさ」
「どうして、って」
そのようなこと、一目瞭然であろう、と宗盛が返答しかけたとき、であった。
「なんで、俺は生きてんだろうな、って思ってさぁ」
涙を落としながら、綾瀬は天を仰いだ。
「羅刹の道を歩いてンのは、俺のほうが先だってのになぁ」
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