第三十七章第一節<英霊召喚>

 しっかりとした足場を探している宗盛は、ふと後ろを振り返った。


 既に出発をした闘技場は幾重にも重なる岩山に隠れ、とうに見えなくなってしまっていた。吹きつけてくる禍々しい風にはかろうじて慣れてきたものの、何かが肌に纏わりつくような感触には辟易していた。


 今来たばかりの道を振り返っている宗盛に、綾瀬は足を止めた。


「どうしたよ?」


「あぁ、済まん」


 宗盛は頭を横に振ると、小石を崩しながら斜面を降りて来る。


「一応、他の奴らも動いてんだろうからな……早く行かねえと、残されちまうぞ」


 この位置からは、天の一箇所で激しく雲が渦を巻いている様子が見て取れた。まるで周囲の空の雲が一点に集まってきているかのような、そして遠い嵐をこの目で見ているかのような不思議な錯覚を覚えさせる光景。


 その光景から、綾瀬と宗盛はあの方角に何かがあると判断したのだ。


「この分なら、あと一時間くらいで」


 それが、仲間との邂逅か、それとも虎の顎の中に身を投じる結果か、どちらかは分からぬが。腕を組み、もう一度宗盛に振り返ったときであった。




 綾瀬の顔が、恐怖と緊張に硬直する。


 今まさに、宗盛の背後で、翼を広げた四肢の張った、あの悪夢のような英霊がいたのだ。悪臭のする息を吐きつつ、牙と爪によって宗盛を引き裂かんとしているではないか。


 まさか、こいつまでが異界まで追ってくるとは。


「宗盛ィィッ!」


 腰の太刀<胡蝶>を抜き払うや否や、綾瀬は英霊に気迫を叩きつけた。宗盛もまた、その叫びの一瞬前に気配から凄まじい殺気が背後に迫っているのを感じていた。


 左の浄眼は、淀んだ霊気が自分の躰に触手のように絡みついてくる光景を幻視していた。愛刀の柄に手をかけ、そして腰の捻りだけで躰を反転させて横薙ぎに抜刀と同時に斬撃を放つ。


 英霊、鷲翼伯犬グラーシャ・ラボラスの右前肢に深い裂傷を浴びせた宗盛は、それ以上の追撃を避け、踏み出した足に渾身の力を込めて後ろに跳んだ。


 それと入れ違う形で、綾瀬は既に跳んでいた。最上段から振りかぶったまま、太刀を直下に振り下ろす。刃が英霊の黒い毛皮に覆われた眉間を捉え、そこから鼻梁を縦に裂く斬撃が襲い掛かる。


 宗盛の初撃で怯んでいた英霊は、綾瀬の連撃までは予想していなかったのだろう。


 急所に深手を負い、英霊が苦悶と怒りの咆哮を上げる。威嚇のための翼を広げ、顔面からぼたぼたと血を滴らせながら、二人を低い位置からねめつける。


 間合いを取る二人は、並びつつも周囲を気配から索敵する。


 何も言わずとも、分かっていた。この英霊がいるということは、それを使役召喚しているあの男がすぐ近くにいるということになる。


 最悪なのは、あの男が姿を潜めたまま、英霊を使役し続けるということであった。何故なら、召喚師の最大の弱点は、その本体の戦闘能力の欠落にあるからであった。


 つまり、目の前で対峙している英霊はいわば召喚師の補佐的なものに過ぎない。英霊との戦闘で疲弊し切ったときに召喚師と遭遇すれば、こちらは壊滅的な打撃を受けぬとも限らぬ。


 だが、二人の予感は杞憂に終わった。


 ぱんぱんと手を打つ音と共に、血染めのスーツを着込んだ華神正光が、英霊の傍らに姿を現したのだ。彼の肥大した自尊心は、戦略よりも自己陶酔を選んだということか。


「見事。まったくもって見事だな、諸君」


 綾瀬と宗盛は、だがしかし彼の自己陶酔に付き合っている暇はなかった。


 視線を交わさずとも、思考は同じであった。田安門の交戦時、綾瀬の刀を頚動脈に受けた傷は、既に塞がっていた。


 如何様な手段を用いたのか、しかしまだ正光は生きている。だがその精神は、最早救いようがないまでに歪みきってしまっている様であった。眼球からとろりと溢れてくるような光は、既に正常な思考を持つ人のそれではない。


「不意を撃ったとはいえ、一方的に手傷を負わせるとは、なぁ」


 英霊の首筋の毛皮の感触を楽しむかのように、幾度も掌を滑らせる。裂傷から煙を上げつつ、身を屈める英霊はそれでもなお、炎を宿した瞳をこちらに向けている。


 喉を鳴らす音と共に、呼気の腐臭がここまで漂ってきそうであった。


 牙が血に濡れているのは、どこかでもう何者かを屠ったということだろうか。


 否、聞くのは後でいい。


 綾瀬と宗盛の二人が、全く同時に正光の眼前から姿を消した。初速度から動体視力を超える踏み込みに移行、神速で移動。恐らく、正光の視界には何も映っていないに違いない。


 一瞬で死角に回り込んだ二人は、首と頭に狙いをつけた斬撃を繰り出す。その瞬間で、正光は恐らく知覚する間もなく絶命していたであろう。


 ここが、異界でなければ。


「そこだな」


 正光の声が響くと同時に、二人は全身を槍衾にされるような衝撃を浴びた。


 ばさりと英霊の翼が広げられ、その奇跡から紫色の槍に似た魔力が放たれたのだ。


 態勢を崩し、吹き飛ばされる綾瀬と宗盛。魔力の槍は躰を貫くことまではしなかったものの、代わりに筋肉が麻痺を起こすほどの激烈な痛覚を呼び起こした。


「この世界では、魔術はさらに強くなる。それは私の力においても、例外はない」


 正光は、もんどりうって倒れる二人を汚物のように睥睨した後、両手を広げて天に声を轟かせた。


「偉大なる諸力によって喚起される汝を、我は求めん! 我に勝利を、そして剱を抜く者には混迷と破滅とを、汝の翼によってここに運ばん……出でよ、簒奪侯鳩シャックス!」


 正光の詠唱は渦を呼び、そして鷲翼伯犬グラーシャ・ラボラスの傍らに影を生む。


 それは人の背丈もあろうかと思われる、灰褐色の羽毛に覆われた、巨大な野鳩であった。しかしその頭上には宝石を散りばめた王冠が掲げられていた。


 二体目の英霊の召喚。それを目の当たりにした二人は、凄まじい速度で士気が打ち砕かれていくのを感じていた。


 一体だけでもあれほどの力を持つ英霊が、二つ。それはすなわち、正光への攻撃がさらに困難になったことを意味するだけではない。


 自分たちの勝機それ自体が、著しく失われていた。


 たった一人で英霊を屠らねば、もう一つの英霊に対して完全に無防備な躰を曝け出すことになる。まさか、あの男にここまでの力があるとは。


 ゲーティア第四十四位の英霊簒奪侯鳩シャックスは首を傾げ、そして一度翼を広げ、高らかに鳴いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る