間章ⅩⅩⅩⅥ<襤褸剱士>

 大地を揺るがし、天を覆う分厚い血の色をした雲を突き破った、光の柱。


 それを岩山の麓で見上げている、男がいた。


 一見したところでは、風に煽られる、ぼろぼろになった布がはためいているようでもあった。元の色彩がどのようなものであったのか、それすら分からぬほどに汚れ、破れ、ほつれた長衣。それを掻き抱くように、その男は纏っていた。


 髪は伸び放題であり、その奥に一対の強い輝きを持つ瞳が輝いていた。


 辺りが薄暗いため、それ以上詳しくは見ることが出来ぬ。しかし身長と動きを見る限り、それほどに年齢は重ねていないようであった。


 男は、腰に一振りの刀を吊っていた。鞘はなく、細身の刃に布をぐるぐると巻いただけの品であったが、柄をぐっと握り締めたままに遠くの光の柱を眺めていた。


 目の当たりにしただけで、胸のうちを掻き乱されるような、焦燥感を煽られる不気味だが美しい光。


 それを見やっていた男は、ややあって小さく舌打ちをした。




 そして、悲しげに頭を振る。


 男はあの光が何であるのか、知っているようであった。


 髪と髭に覆われた顔を光から逸らすと、男は裸足のままの足に力をこめ、跳んだ。麓とはいえ、地表までは優に数十メートルはある高低差だ。鍛え抜かれた躰を持っていても、一つ間違えば大怪我は免れぬ。


 しかし、男は着地を考えてはおらぬかのように、もう一度顔を上げ、光の柱を見る。


 そして次の瞬間、男の躰は宙空で幻のように消失した。


 


 


 男の足の裏に伝わってきたのは、柔らかい下草と、湿った土の感触だった。


 膝を曲げ、着地の衝撃を関節と筋肉で吸収する。細いが柔軟な筋肉は、かなりの落差の跳躍から生ずる反動を、しっかりと相殺していた。


 男が姿を現したのは、先刻までいた異界とは全く違う場所。見上げる空は、豊かな雲が黄色と橙の中間の色の光を反射し、暖かな景色を彩っていた。


 一面に大地を覆う芝から伸び上がるように、苔むした石段がすぐ目の前から続いていた。


 石段はくみ上げられた回廊となり、ずっと森の中へと続いており、先は見えぬ。すぐ近くを小川が流れており、覗き込めば小さな魚が流れの中を縦横に素早く身を翻しながら、時折鱗を輝かせている。


 躰を伸ばすと、男はどちらに行けばよいものかと、辺りを見回した。


 転移は男にとって、予想外の出来事ではなかったようだ。しかし、視界に一人の少女が突然姿を現したとき、男ははっきりと分かるほどに躰を緊張に奮わせた。


 見事な金色の髪は、貴金属を鍛造してできた豪奢な糸のように、光を受けてきらめく。目を引くほどではないが、整った顔立ちの少女はゆったりとした衣服を腰の辺りでベルトで絞った格好で、小走りに近寄ってくる。


 少女が名を呼ぶと、男は数メートルを反射的に跳んだ。


 警戒しているのではない。しかし、男の動作には、何処か怯えが感じられた。


「行ってきたのね、どうだった?」


 男は言葉が喋れないようであった。


 少女の問いも、答えを期待したものではなかったようだ。獣のような喉を鳴らす音を続ける男に、少女は屈託のない笑顔を浮かべた。


「怪我はしてないのね、よかった」


 少女は微笑むと、少し寂しそうな表情を、神彫像のように美しい横顔に湛えた。


 ぐっと唇を噛み、喉まで出掛かっている言葉をかろうじて飲み込む。


 その表情の変化を、男が見逃しているはずがない。ゆらりと身を起こした男の胸の辺りで、何かが瞬くように光った。薄汚れてはいたが、それは金属の輝きであった。


 それが何であるのかを判別するには、もっと近寄らねばならなかったが、生憎と男は他人がそこまで近寄ってくるのをよしとしなかったのだ。


「じゃあ、私、行くね」


 くるりと踵を返し、少女は小走りに森の中へと走っていった。

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