第三十六章第三節<盲目の僧>

 シャトーが去ってからも、沙嶺は膝をついたままの格好のまま、俯いていた。激痛に耐えるため、岩肌に立てた爪は割れて、乾いた砂地に四本の血の染みを残している。爪と肉との間に砂利が食い込み、痛みを生んでいるが、今はそのようなことはどうでもよかった。


 シャトーの残した言葉が、ゆっくりとではあるが、沙嶺の胸の中で膨れ上がってきていた。


 声もかけられず、じっと立ち尽くしている雅は、そのとき近づいてくる気配に気づき、顔を上げた。先刻のシャトーに向けて刀を投じた鬼哭が、甲冑を鳴らしつつこちらに近づいてきていた。


「大事はないか」


 鬼哭の言葉が沙嶺の耳に響いた瞬間、沙嶺は押し潰されそうな胸中から、なんとか呟きだけを声として漏らした。


「……俺は、妖なのか」


「妖なればこそ、我の声も聞こえたのだろう」


 鬼哭の言葉に、沙嶺は帝都に向かう前、夜の寺で宝慈と語り合ったあとの見知らぬ武者の像を思い出していた。


 あの時、盲であるはずの闇の中に浮かんだ甲冑姿は、鬼哭であったのか。刀を腰の鞘に収めると、鬼哭は鬼の面をつけたまま、天を振り仰いだ。


「正しくは、半妖。人と妖の間に生れ落ちた子よ」


 人として暮らしていれば、己が人であることを疑う者などいるはずもない。何か強いきっかけでもあれま目覚めることもあろうが、座敷牢に閉じ込められ、そして山へと連れて行かれた沙嶺には、外界を知る手段は限りなく少なかった。そして、自分が操る方術の力も、同じく僧として修行していた宝慈を見れば、とりたてて珍しい力とも感じていなかった。


「盲であったというのも、恐らく妖の力故、人の躰が歪みを起こしていたのだろうな」


 それが、この異界に足を踏み入れたことで、妖の血と力が優勢になり、人の躰を逆に支配したというのか。


「妖、か」


 痛みは去っている。足に力を込め、俯いたままゆらりと立ち上がる。


 ふと視線を落とした指の先には、既に血の跡はない。ギザギザに割れていた爪も、いつしか元通りに治っていた。


 痛みは無論、ない。この治癒も、妖である証拠であるのか。


「沙嶺」


 打ちひしがれた沙嶺に、雅が声をかける。


 前髪に覆われた沙嶺の顔は、一見落ち着いているように見えた。自分に向かういつもの微笑もそのままに。


 だが、その奥には今にも泣き出しそうな、揺れ動く沙嶺の感情が見えた。




 目を閉じれば思い浮かべることが出来る、美しい数々の風景。それらは、果たして自分が無意識のうちに、飛び回っていたことで知るものなのか。


 それとも、何処か遠き地にいるであろう、妖である父の記憶なのか。


 父がどのような妖であったのか、そして今はどうしているのか。山奥で幾度となく、修行中に耳を打ったあの声は、自分にしか聞こえなかった声は、すぐ近くにいる同胞を求める、力弱き妖のものであったか。


 今まで、知らずとは言え、自分は人として暮らしてきたのだ。人の中に住み、人として食い、笑い、泣き、眠ってきたのだ。シャトーと相対した時に沸き起こった、激流のような怒りは、同胞を奪われ、力によって支配されたことへの激昂か。それまで妖の住まう地として崇め、畏れられてきた秘奥に無断で足を踏み入れ、均衡を崩した人間への深い恨みか。


 それならば、俺は今まで何をしてきたと言うのだ。


 人と語らい、人の街を守るために戦ってきたという事実は、妖にしてみれば深い裏切りなのではあるまいか。


「沙嶺」


 名を呼んだのは、鬼哭。


「お前は、今までは人であった。そしてこれよりは、妖となろう……喜んで迎えようぞ、我らが戦友よ」


 差し出される、鬼哭の篭手に包まれた右手。それを前にして、沙嶺はかぶりを振った。


「その誘いは、受け入れられない」


 受け入れずとも、己が妖であることには変わりはない。


 現実から目を背けることはできぬ。それは分かっている。だが、俺はまだ、もう少し、人でいなければならぬのだ。


 首を振り、雅に視線を移す。


「俺を、もう少しだけ、仲間として、見て欲しい……この戦いが終わるまで、せめて」


 それが、今まで自分を信じてきてくれた、仲間への礼儀であろう。


 もう少しだけ、人でいさせて欲しい。


 沙嶺は身をかがめると、地に落ちた錫杖を拾い上げた。澄んだ音色を立てて鉄環が触れ合い、掌になじむその冷たい感触。


「沙嶺!」


 そのとき、雅が強く名を呼んだ。沙嶺と鬼哭、二対の眼差しが雅に注がれる。


「私は気にしないからね!」


 沙嶺が、人であっても、妖であっても。その違いは、自分にとってどれほどのものだろうか。


 今まで、沙嶺に対し自分は人として接してきた。沙嶺もまた、自分を人として疑わなかった。その本質が違えていたとしても、沙嶺と周りの者は、誰しも同じ感覚であったはずだ。


 ならば、そこにどれほどの差異があるというのだろう。




 沙嶺が、何かを言おうと口を開いた瞬間であった。


 大地を揺るがすような振動が、辺り一体を襲った。これまでにない異変に、緊張が走る一行の目の前の岩山の彼方に、天を衝く光の柱が屹立する。


 何が起こっているのかまではわからぬ。


 しかし確実に、この世界に起きた変化であるのだ。あの柱の大きさであれば、どこか遠くにいるであろう仲間にも見えるはずだ。


 そして、恐らくはその正体を確かめるであろう。


 沙嶺と雅、鬼哭は視線を交わし、そして疾走をはじめた。

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