第三十六章第二節<暴かれた記憶>

「やっと、見つけたよ」


 シャトーは悠然とした足取りで、沙嶺と雅に近づいてきていた。すぐ傍らで倒れ伏し、事切れているサミュエルには一瞥もくれず、シャトーは仄かな笑みを浮かべながら歩を進める。


 見つけた。


 その言葉はサミュエルが姿を現したときと同じ台詞。だが、シャトーが口にしたそれは、サミュエルのものとは比べようもないほどに禍々しく、不気味で、歪んだ音を耳に響かせた。


 シャトーの全身から感じられる、気配。ただそれは、常人同士が感じ取ることのできる、微細なものではない。同じ、秘術を駆る者にしかわからぬ、強い気配。


 西洋の魔術団体は、それを波動と呼ぶ。シャトーのそれは、しかしただ単に魔力の高い者が持つ波動ではなかった。己の持つ力を、完璧な意識の統制化においた、それはごく一部の魔術師にしか出来ぬ、波動の制御であり、完璧なアイティールの支配であった。


 シャトーはサミュエルの横たわるすぐ傍らを過ぎ、沙嶺に対峙する場所で足を止めた。


「目は、見えているようだね?」


 沙嶺が、盲目であったこと、そして今は視覚が快復していることを、シャトーは一目で見抜いているようであった。白銀の瞳孔はまるで眼球全体に紗がかかったような印象を見るものに与えるが、シャトーは例外であった。


 シャトーの霊力の込められた視力は、沙嶺の力が視覚にまで到達していることを看破していたのだ。


「あぁ、見えてるよ」


「さすがはJapanese priest……いや、先程の戦いぶりを見る限りでは、Monkと呼んだほうが相応しいかな?」


 日本においては、僧侶は山岳信仰の名残から、必然的に高い体力と強靭な肉体を有することとなる。


「一つ、聞かせてくれ……見つけた、とはどのような意味だ?」


「その言葉の通りだよ。僕は、君を探していたんだ」


 シャトーは、先刻同様の不気味な笑みを浮かべた。


 同時に彼の躰を螺旋を描くように包む、異形の影がぼんやりと浮かび上がる。節くれだった凹凸を空中に描き出すそれは、何とずるずると蠢いているではないか。


 それを目の当たりにしたとき、沙嶺の表情が険しくなった。柳眉を吊り上げ、まるで先刻サミュエルを相手に戦ったときとは別人であるかのごとき殺気を宿す。


「それを、何処で」


「ん、あぁ……これか?」


 シャトーは、まるでその螺旋をいとおしむかのように、愛撫する。それを受けて、金属を擦り合わせるような、不快極まる音声が、辺りに響き渡った。


 金属的な音を耳にして、沙嶺はぐっと握り拳を固める。傍らにいる雅は、どうしてそこまでに沙嶺が感情を押し殺さねばならぬほど、激昂しているのか、理解できなかった。


「赤城山、という場所で契約をしたんだよ。ネイチャー・スピリットの類らしいね……ま、君たちの間では、妖と呼ぶらしいが?」


 シャトーは満面の笑みを浮かべ、愛撫を止めて沙嶺に視線を戻した。幻のようなその螺旋は、明らかに苦痛に身をよじっているのであった。


「契約? 恫喝の間違いではないのか」


「霊的存在を使役するのに、それ以外の方法があるのかい?」


 沙嶺を気遣うあまり、そっと傍らから沙嶺の顔を覗き込んだ雅は、その瞬間、あっと声を漏らしそうになった。


 僧衣を汚す、赤い雫。それは沙嶺の左の目から溢れている、血の涙であった。


「何故、妖が人間に使役されなければならぬのだ」


 ぎり、と沙嶺の奥歯が軋る。その怒気を感じたシャトーは、笑顔のままに壮絶な気に打たれる。


「何故、人はそれほどまでに支配を欲するのだッ!」


 裂帛の気が、言葉となって沙嶺の喉を震撼させる。


「そうだ、その気迫、その魔力……人では決してあり得ぬ、その力」


 シャトーは頬を冷や汗で濡らしつつ、喘ぐように呟いた。


 人ではない、力。雅は驚愕に大きく目を見開いたまま、そして恐怖を忘れ、シャトーに見入る。


 沙嶺が、人ではないなんて。それでは、沙嶺は一体。


「お前は、日本で出会った最高の妖だよ……隠しても無駄だ、沙嶺」


 


「俺が、妖」


 沙嶺は、シャトーの言葉を繰り返すように、呟いた。


 記憶がない、というその理由は、妖であった為なのか。いや、それを証明するものは何一つない。己を惑わすための、この男の口先だけの偽りである可能性もある。


 しかし。


「そして、妖である以上……僕の手足となってもらうよ、沙嶺」


 シャトーの霊圧が、およそ限界まで膨れ上がる。何をするつもりか、その手の内が読めぬうちに、シャトーは先手を打った。


 ぐっとシャトーの影が伸び膨れたかと思った瞬間、そこから無数の人影が躍り出た。


 それぞれが、フードをしっかりとかぶった長衣を纏っている人影だ。そのため、一様な外見となり、詳細は見て取れぬ。だがそれらには身長差があり、その情報によって大人と子供とが混在しているであろうことが分かる。


 しかし、彼等は何者なのだ。シャトーの影から、一瞬にして姿を現した、その正体は。


 全部で十二人の長衣を纏った者らは、沙嶺と雅をぐるりと取り囲んだまま、静止する。


 空間がそれだけで矩形されていることを、沙嶺は感じていた。


 既に相手の術は始まっている。そして、十二人は全く同時に、手を二人に向けて突き出した。


 その瞬間、沙嶺の全身を無数の針が貫いたかのような激痛が走る。


「ぐあああああああッ……!」


 全身の筋肉が激痛に硬直し、意思に反して躰が激しく痙攣する。


「霊体専用の縛魔の結界だ。それが効いているということが、何よりの証拠だね」


 シャトーの言葉は、嘘ではなかった。沙嶺の傍らにいながら、雅には何等、結界は作用していないのだ。


「沙嶺!? ねえ、どうしたの! ねえってば!」


 沙嶺からは答えはない。ただ、全身を隈なく責め苛む激痛に声を発することすらできず、膝をつき、ただ耐えるしかないのだ。


 困惑した雅は、蹲る沙嶺からの反応がないことを知ると、吃とシャトーをにらみつけた。


「止めて! いますぐ止めなさいッ!」


「愚かなことはしないほうがいい……そう言われて、僕が止めるとでも思うのかい?」


 言葉につまる雅だったが、それで視線をそらすほど、弱くはなかった。


 ざらつく大地に掌をつき、指先をぐっと曲げながら、沙嶺はまだ、耐えている。だがもうその抵抗が長くはないことは、雅の目にも明らかであった。


 自分の力では、どうにもならぬ。


 シャトーを相手にして、先刻のように銃弾が効果を及ぼさぬことは、皇城での戦いで学んでいる。絶望にも似た、非力さを思い知らされるその状況において、雅は溢れる涙を拭おうともせずに、歪む視界をそのままにシャトーを見据える。


 このまま、沙嶺は奴に打ち負かされるしかないのか。自分は、ただ黙って手をこまねいているしかないのか。


 そのとき。




 縛魔の結界が、突如として破られた。否、シャトー自らが解くことを余儀なくされた、とでも言うのか。


 それは、シャトーの霊的死角からの不意打ちであった。


 投じられたのは、一振りの日本刀。それは確実にシャトーの後頭部、脳幹の位置を狙ったものであったのだが。


 結界が破れたのは、十二人の謎の長衣を纏った者のうち、一人が動いたためであった。


 シャトーを守るべく、飛来する日本刀とシャトーとの間に躰を割り込ませる。だが、それは身を挺した捨て身の警護ではなかった。一動作で長衣を脱ぎ捨てると、その下から現れたのは、黒の礼服をきっちりと着込んだ初老の紳士。


 紳士は手に持ったステッキを一度打ち振るうと、恐るべき速度で向かってくる日本刀を見事に打ち返した。弾かれ、くるくると回転する刀は、遥か彼方にまで引き戻され、そして持ち主の指の間に寸分の狂いもなく収まる。


 刀を投じたのは、甲冑に命を宿した妖、鬼哭であった。その姿を認めた紳士は、シャトーの傍らにおいて箴言を口にする。


「ご主人様、ここは一度退いたほうが賢明かと」


「妖が二体と拳銃師……勝てぬ相手ではないが、な」


 シャトーは一度頷くと、退却を決意する。その意志だけで命ずることが出来るのか、残りの十一の者は一瞬で跳躍し、次々にシャトーの影の中へと飛び込んでいく。


「では失礼」


 膝を曲げ、一度大きく跳躍したシャトーは、牽制する間もなく、姿を眩ましていた。

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