第三十六章第一節<折れ砕けた刃>
石像と悪魔の憑依を断絶せしめた風は、それでもなお渦巻いてのち、急激に勢いを弱めていく。ゆっくりと十字架の森を吹き抜ける微風となって次第に消えていくそれに髪をなびかせながら、沙嶺は顔を上げた。
今しがた、残る悪魔を呪風によって殲滅させた術師サミュエルは、スーツの上着を脱ぎ捨てた格好のまま、黙って沙嶺と雅を睥睨していた。その視線が友好的なものではないことだけは、言葉を交さずとも確かに分かる。
「見つけたぜ?」
サミュエルはにやりと唇の端を持ち上げて見せると、十字架の枝を腕で弾き、数メートルの高低差をものともせずに飛び降りてくる。
彼の持つ魔力を感じたのか、雅は半歩後じさりつつも、悲鳴は決して漏らさぬ。沙嶺の銀の瞳をしっかりと受け止めながら、サミュエルはぐっと手を前に突き出した。
その所作をなおも黙って見つめる沙嶺は、やがて静かな口調で礼を述べた。
「雅を救ってくれたことには、礼を言う」
沙嶺に対し、サミュエルの五指が握りこまれた。
「本気で言ってんのか、てめえ」
サミュエルの感情が膨れ上がっていく。自分の挑発を受け流されたことに対し、サミュエルは頭に血が上っていた。
「助けるつもりなんざ毛頭ねえよ……だがなぁ、この程度の悪魔に殺させちまったんじゃあ、後味が悪いってことだ」
「どうして、俺たちを狙う」
沙嶺としては、戦う意志を見せたくはなかった。この地に対する知識が乏しい以上は、力をどのような形ではあれ、消耗することは望ましいことではないのだから。
それよりも、目の前の男からこの場所についての情報を聞き出すほうが、益になるというものだ。
「てめえらが日本人だからに決まってんじゃねえか」
サミュエルの眼差しは強い意志には溢れているが、濁ってしまっている。ただ盲目的に、自分を突き動かす何者かに操られてしまっている。
「では、どうして」
沙嶺が重ねて問おうとした時だった。
ひゅごう、とサミュエルの周囲で風が渦を巻く。既に一度、悪魔に対して呪風を放っているということは、サミュエルのエノク魔術は準備が整っているということになる。
「がたがたうるせえぞ」
低い声が、絞られるように唇を割る。風はそれ自体には攻撃の意図は込められてはいないが、いつ何時襲い掛かってくるとも限らぬ。
「下がって」
雅の前で手を広げ、沙嶺は制した。呪力合戦になるならば、雅には身を護る手段は少ないのだ。
雅もまた、自分の力を過信するような愚行は犯さなかった。サミュエルの気配を察知し、素早く踵を返すと背後の十字架の台座の岩の陰に回りこむ。
風の旋回が、次第にはっきりとした形を帯びてくる。
「どうしても、戦いたいのか」
「腰抜けなら、さっさとやられちまいな」
最早、説得の余地はない。軽くため息をつき、沙嶺はサミュエルをひたと見据えた。
前に突き出されているサミュエルの手は、軽く握られてはいるが、その中に何かの力を感じる。
「
サミュエルは握り込んだ指のうち、二指を揃えて突き出すと、右肩から左肩にかけての線から開始される召喚五芒を描き出す。
急激に高まっていく風の力を感じつつ、沙嶺もまた行動を開始していた。曼華経における梵字観想と、あの五芒は同じ働きを及ぼしているのか。
「風は四緑木気、巽より来りし長蛇なり」
五行相克をもって、サミュエルの術を破る。
金克木。木気は金気をもって制するべし。相克関係にあるものは、七赤金気、酉の方角。沙嶺は素早く考えをまとめると、結印。
「
金剛界五仏が憤怒の形相となった教令輪身、五大尊のうち、酉の方角を守護する大威徳明王を召霊する。それによって東洋呪術の見地からサミュエルの風に対抗する最上位の力を降臨させ。
手に持った錫を一回転させ、正面からサミュエルに突打を浴びせる。
サミュエルはそれに対抗し、先程描いた五芒星に風の魔力を注ぎ込み、盾とする。だが明王の緒力を封入された沙嶺の打撃は風をやすやすと打ち破り、四散させる。驚愕に眼を見開くサミュエルは、それでもかろうじて上体を逸らせることに成功した。
六角錫の角がサミュエルの頬をかすめ、浅い切り傷を刻むのと、素早い跳躍で間合いを離すのとはほぼ同時であった。
「何しやがった、俺の風が……」
「お前の力が風である以上、もう勝機はない」
キリークの種字を精神に強く刻みつつ、沙嶺はゆっくりとサミュエルに近づいていく。ぐっと瞳に意志を凝らし、サミュエルは次なる詠唱に入る。
「
サミュエルに錫打が打ち込まれる。次の打撃も身のこなしで躱したサミュエルの姿を、何かの光が照らし出す。
それは、沙嶺の瞳には炎の輝きとして映っていた。
サミュエルの読みは、恐ろしいまでに当たっていた。
先刻の錫の一撃を、自分の術では防げなかった。そのことから、沙嶺が用いたのを自分の呪風に対する対抗呪術であると判断。続くエノク言語で火星の精霊を召喚することで、風の中で増幅する火を纏うことによって、単一属性のままの状態から変化させたのだ。それにより、相克関係にあった沙嶺の呪術もまた、力を存分に発揮できないことになる。
徹底しての戦闘態勢に入るサミュエルに対し、一瞬で決着をつけたかった沙嶺は舌打ちをする。
「どうして、そこまで戦いを望む!」
「
サミュエルは答える代わりに、手の中に風のエレメントを集結させ、それを視覚化によって長剱の形状に固定する。共通の概念を持たない沙嶺にも、サミュエルが何か不可思議な力を宿したものを握っていることは、微かな揺らぎによって見えていた。
「俺はなぁ、この魔術で日本人の呪術師をブッ潰したくて、この遠征に参加してんだよ」
連続して沙嶺の攻撃を躱したことによって崩れていた態勢をのそりと戻すと、サミュエルは凄惨な笑みを浮かべた。
「なら」
無益な殺生は好まぬ。だが、腕や足の一本程度であれば、我慢してもらうよりないか。
錫を構え、再び突撃をかける。対するサミュエルは、明らかに肉弾戦には慣れていないようであった。それでもなお、沙嶺の棒術を呪風による加護を駆使して受け流し、捌き、身を翻す。
物陰から見ている雅ですら、息を詰まらせるほどの沙嶺の棒技に、しかしサミュエルは次第に追いつめられていた。
髪をなびかせつつ、繰り出す攻撃の間隔が、僅かに乱れた。それが沙嶺の疲弊によるものか、それとも技の一部なのか。
いずれにせよ、サミュエルは態勢を崩し、沙嶺の前に無防備なままの躰を曝け出すこととなった。
その隙を沙嶺が見逃すはずもない。容赦のない打突がサミュエルの水月にめり込み、躰はそのまま後方の岩塊に激突した。
大きな亀裂を生むほどの打撃に、サミュエルはしばし呼吸が出来ぬ苦しさに汗を噴出させ、次いで血塊を吐き出す。地に右手をついて躰を支え、サミュエルは臓腑を千切られたような苦悶に何度か痙攣し、そして顔を上げる。
「分かっただろう。日本の僧侶は方術のみに頼っているのではないんだ」
これ以上戦う意志がないことを示すかのように、棒の構えを解き、沙嶺はゆっくりとサミュエルに歩み寄っていく。視界の中で、サミュエルの戦意喪失を殊更に示すかのように、サミュエルは喉奥にこみ上げてくる熱い感覚に、さらに身を折る。
そのときであった。
「沙嶺ッ!」
引き攣ったような雅の悲鳴が、二人の耳を貫いた。振り向き、雅の恐怖と緊張に歪んだ顔を目の当たりにする。
「上!」
雅の声につられ、視線を上へと持ち上げ、そして一度サミュエルに戻し、さらに上へ。
そこでやっと沙嶺は理解したのだ。先刻の打突の威力によって割れた岩の上にある、巨大で鋭利な十字架が、大きく傾いでいるのだ。
台座から安定が失われれば、あれが落ちてくる。
「サミュエル!」
沙嶺の声に、サミュエルはよろよろと起き上がる。しかしそうしている間にも、巨大な槍のような十字架は不気味な音を立ててさらに傾ぐ。
「こっちに来い!」
「くそったれが……!」
驚くべきことに、サミュエルはまだ戦意を打ち砕かれはしていなかったのだ。
ふらつく足で立ち上がり、手の中に風のエレメントを呼び起こす。傷のせいで集中力は乱されているため、風はサミュエルの意志を離れ、暴走を起こす。
ぎしり、と岩が軋みを上げ、ばらばらと石片が落下してくる。
限界だ。
「サミュエル、こっちに来い、死ぬぞ!」
シャツを吐血で汚しながら、サミュエルはそれでも不敵な笑みを浮かべている。
このままでは埒があかない。いざとなれば突き飛ばしてでも、と考えたとき、雅が岩の陰から飛び出してきた。
そのまま距離を驚くべき速力で駆け抜け、沙嶺の腰にしがみつく。
「だめ、行ったら駄目!」
動けないまま、沙嶺はもう一度、サミュエルを見た。
その笑みが何を意味するのか。十字架は重力に屈し、そして砕けた。
濛々と上がる土煙。それが次第に晴れてきたとき、二人はサミュエルの末路を見た。
地に縫いとめられた躰。背中には、かろうじて傾いた十字の横棒の先端が、深く突き刺さっていた。
うつ伏せに倒れたまま、サミュエルは動かない。
その光景をしばし沙嶺は無言で見つめていたのち、くるりと踵を返した。
「行くよ、雅」
肩に手を置き、雅を促す。躊躇いがちに頷きながら、雅はもう一度、サミュエルを見る。
粘着質な音が、何処からか響いた。
嫌な気配が雅を打つ。
警告を発しようとしたとき。
「勝利を……ッ!」
サミュエルの顔ががばりと起きる。左手で地を掴み、貫かれたまま無理やりに躰を起こし、手に持った風のエレメントの剱を投げつけようと仰け反り。
唐突に、銃声が響いた。
沙嶺が振り向いたときには、雅が構えた短銃から発射された弾丸が、サミュエルの眉間を打ち抜いていたところであった。鈍い光を放つ血の飛沫が十字架を濡らし、その下でサミュエルの躰から力が抜け落ちる。
沙嶺は言葉が見つからず、雅をただ見つめていた。
自分の中に渦を巻く感情に名前すらつけられず、そしてそれが何であるのか、自分でさえ分からず。
「私が撃たなければ、私と沙嶺、どちらかが殺されていました」
その言葉は、まるで自分に向けられたものであるかのように、くぐもっていた。
低く、不明瞭で――――哀しげで。
「見縊らないでください。これでも、私だって特戦警の一人、なんですから」
それでも、今まで雅は人を殺したことなどなかったのだろう。その証拠に、雅の頬は瞳から零れ落ちた一筋の雫に濡れていた。
硝煙の煙をまだ上げ続けている銃を雅は乱暴に帯に挟み込むと、沙嶺の元へと駆け寄ろうとした。
だが、その足は凍りついたかのように動かなかった。
いや、動けなかった。なぜなら、雅のすぐ背後、あたかも撃ち殺したはずのサミュエルが蘇えったかのような位置から、緩慢な拍手が聞こえてきたからであった。
「やっと見つけたよ」
サミュエルではない。感じる波動も、先程までとは桁違いだ。
沙嶺の瞳が、すうっと細くなる。
サミュエルの躰を貫いた、斜めの十字架の上に、一人の男が屹立していた。
白いスーツのその男の名は。
シャトー・ムートン・ロートシルト。
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