間章ⅩⅩⅩⅤ<魔徒契約>
それは、唐突に生じた。
地獄最下層における光球のある地に出現した空間のゆがみは、まるで襤褸を吐き捨てるかのように、汚れ乱れた長衣を纏ったエフィリムを生み出した。短いうめき声と共にざらついた岩盤の上に乱雑に放り出されたエフィリムは、四肢を張るように身を起こそうとしたかと思うと、次の瞬間には大きく上体を歪め、そして嘔吐した。
吐瀉物がなくなってもなおも痙攣はやまず、食道を抉られるような激痛にたっぷりと数分間、苛まれて後、エフィリムはやっと顔を上げた。
眼前に迫り来るような錯覚を覚える光球をねめつけながら、口元を汚す苦い胃液を手の甲で拭うと、エフィリムはふらふらと近づいていく。
その足元には、光を反射して鈍く輝くものがあった。
折れ飛んだ、鶏頭の太刀の破片であった。九朗、アリシアらと転移する前までは光球に突き立っていたその将門愛用の刀も、圧倒的な魔の奔流の前では屈せざるを得なかったようであった。
光を見やるエフィリムの頭蓋に、鈍痛が走る。歯を食いしばってもなお、眼球を貫いた焼火箸で眼窩の骨を掻かれるが如き痛みに声が漏れる。
顔面の左半分が麻痺するほどの痛みに、顔の皮膚を引き剥がさんほどに爪を立て、痛みに堪えながら、エフィリムは光球から視線を外さなかった。
明滅するその光の中に、僅かに陰影が浮かんだ。
はっとなるエフィリムの前で、陰影はさらに濃く、輪郭を明瞭にしていく。
網膜に焼きついた残像などでは決してない。それは次第に一つの形――人の顔を象りはじめていた。
「これが……ッ、写本……<妖園世界>の……」
がくんと力の抜ける膝を叱咤し、さらに進む。
その様子に、光の中に浮かんだ人の顔は嘲笑うかのように笑った。
光に近づくにつれ、脳を貫く痛みはさらに強くなる。しかしそれでも、エフィリムは進む。ぼろぼろの躰に鞭を入れ、少しでも近づこうと、右腕を伸ばす。
光の外殻に、もう少しで触れるというところまで到達する。
そのときであった。
躰が破裂すると思えるほどの、内側から凄まじいほどの魔力が漏出する感覚が全身を襲う。
抑え込む間などあろうはずもなく、その力はエフィリムの眼前で収斂、実体化し、一冊の本を結ぶ。
体内に宿していた、二冊分の写本を強制召喚させられたのだ。疲弊し切った躰からさらに魔力を抽出させられ、エフィリムはたまらずにその場で膝をついた。
「哀れなり」
光球から、声が聞こえた。
霞む視界にも屈せずに瞼を押し上げ、エフィリムは陰影の顔を仰ぐ。
「魂魄の傷はいまだ癒えず、その躰では我を司ること、能わず」
魂魄の傷とは、エルクスを救助するために急遽分身を他の世界へと送り込んだ際に、迎撃されたものを示していた。
神の揺り籠となった者たちより受けた、五つの精霊の力による深い瑕。それまでは何とか魔力によって抑え込んでいたにもかかわらず、九朗の攻撃によって躰を巡るアイティールの均衡が崩れたことで、エフィリムの体力は急速に減退していた。
「写本を」
「愚かなり、箴言を聞き入れぬ者」
「写本をッ!!」
血を吐くような声を、エフィリムは漏らす。
ここで退くことは出来ぬ。何としても、写本を手に入れねばならぬのだ。岩に噛り付いてでも、土を食み飲まんとも、己が力をもって、写本を対峙せねばならぬ。
脂汗と吐瀉物に塗れた顔で、エフィリムは写本に渇望の眼差しを向ける。
もしその気になれば、写本は無数の魔術を繰り出すことによって、自分を排斥することなど容易いはずだ。
試されているのか。嬲られるのか。
否、それでも。
「よかろう」
写本の中の顔が、首肯したように見えた。
ぐいと光が陰り、おもむろに広げられた漆黒の翼がエフィリムを包み込んできた。
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