第三十五章第二節<エノキアン・タリズマン>
春日梓に案内されたのは、陥没孔の平原が終わろうとしている場所であった。
獲物を吸引する異界の罠は全ての孔の底にあるわけではないらしく、梓はその中の一つに何の躊躇いもなく入っていく。その様子を見たルスティアラは眼を大きく見開くほどに驚いたが、北斗はそれを促すようにして頷いた。
曼華経の少年といえば、知る名は一つ。
アレクセイを背負ったままの北斗は、事態が急を要することを察知していた。だからこそ、こうしてアレクセイを背負ってまでルスティアラを導いたのだ。
墨曜道では、癒しの呪術は限定された方法しか取れぬ。それよりは、東西の差異なく浄化と癒しの概念を持つ水の力を操る呪術師であるなら、効果的な手段を知っているだろう。
肉体を酷使することには慣れていない北斗は、頬から顎にかけてを汗で濡らしながら、ずり落ちそうになるアレクセイの躰を一度背負い直す。
孔の淵に立ち、両者のやり取りをじっと見つめていた梓は、やがて話がまとまったことを知ると無言のまま、斜面を下った。
まずそれをルスティアラが追い、そして北斗が続く。淵を下っていくとき、北斗はふと振り返り、平原を見渡す。不気味な響きを孕んだ風がただ吹き抜けるだけのその場所は、永遠に続いているかのような絶望を駆り立てる光景であった。
梓が案内したのは、北斗とルスティアラが身を隠したような虚よりも一回り大きい場所であった。
入り口付近には、紙垂が風に揺れている。我々には何等効力を及ぼさないが、これより奥は邪気を持つものは侵入することができない。
神祇調による結界が張られているのだ。
その入り口を潜る北斗は、そして足を止めた。
四方に榊の若枝を突き立てることでさらに結界を重ねた中心に倒れているのは、紛れもない圭太郎であった。僧衣のまま、じっと仰向けに寝かされているその顔は、安らかに眠っているかのようであった。
ぎょっとなる北斗ではあったが、薄く筋肉の張った平らな胸が規則的に上下していることを見た北斗は、全身を支配しかけた緊張を解いた。
だがそれは、圭太郎の具合がよかったからではない。単に最悪の状況を免れたに過ぎないのだ。
「傷は深いのですか」
「見つけたときはひどい有様だった。血は止まっているが、躰は冷たい」
北斗は膝をつき、圭太郎の額に手を当ててみた。梓の言葉どおり、ひんやりと不気味な感覚が掌から肘までをそろりと撫で上げてくる。
医学の知識には乏しい北斗であったが、健康な人間の体温でないことは確かであった。
しかも、圭太郎は傷を負っているのである。体力的にも低下した人間であるならば、その負担は一層大きいものになるだろう。
今のところ、眠っているということは小康状態であるのだろう。だが発見した以上は、今後の移動の際には圭太郎も連れて行くことになるだろう。その行軍に、負傷した圭太郎が耐えられるかどうか。
否、状況によってはこのままの昏睡が続くことすら考えられるのだ。
行動の選択肢は限られている。視線を圭太郎に向けながら、北斗は薄い唇を開いた。
「できますか、ルスティアラ」
その言葉にまず反応したのは、ルスティアラ本人ではなかった。
「外法に頼るというのか!?」
ルスティアラの表情が、梓の言葉に曇る。
だが北斗は梓の言葉には耳を貸さず、顔を上げると揺れるルスティアラの瞳を支えるように視線を向ける。
「……できますか」
「はい」
ルスティアラの瞳が、意志に満ちる。
彼女もまた、手練れの呪術師なのだ。
彼女の術によって圭太郎を癒すことは可能だ。しかしそれには、梓の張った神祇調の結界を解く必要がある。
全く別途の魔術理論によって喚起された力同士が近接した場合、力は術師の支配を振り切る場合があるからだ。
北斗は立ち上がると、梓の横に並ぶようにして囁く。
「結界を解いてください、内側のものだけで構いません」
「本気か」
梓の短い問いに、北斗は頷いた。
「この中で、圭太郎の傷を癒す力は彼女だけです。彼女を外法というのなら、記紀神話に因らない私の術もまた、外法ということになるのではないですか?」
梓の瞳が動き、真横にいる北斗の横顔をしばし、見つめる。
ややあって、視線は北斗から離れた。
「……変わったな」
梓はそのまま圭太郎の側まで行くと、細い指で榊の若枝を握り、引き抜く。
結界が解かれたことを確かめると、ルスティアラは圭太郎の横に膝をつき、長衣から一枚の金属板を取り出した。一辺に四文字のアルファベットが刻まれたそれを左手に持ち、眼を閉じるとゆっくりと息を吸い込んだ。
「
ルスティアラの詠唱を耳にしながら、北斗は入り口付近の岸壁にもたれたままのアレクセイに眼差しを落とす。
混濁してはいるが、アレクセイの意識は快復していた。日本人の眼には奇異に映る、琥珀色の瞳がじっと自分を見上げている。
「痛むところはないですか?」
傷を負っている人間にする質問としては、あまりにも馬鹿げている。だが、それを気にすることもなく、アレクセイは無言のまま頷き、そして再び目を閉じた。
北斗は岩壁に手を置き、虚の外を眺めていた。
この悪夢のような場所から、脱出する方法はあるのだろうか。そして、他の仲間はどこへ行ったのだろうか。
沙嶺、宝慈、綾瀬、雅は。
激しく渦巻く焦燥感を、北斗は眼を閉じ、拳を握り締めることで何とか押さえ込もうとした。
「見よ、息衝くあらゆる存在の生気に満ちた息は、この光の剱なり……」
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