第三十五章第一節<大己貴命八剱呪式>

 一度、二度。


 虚の中に膝をかかえていた北斗とルスティアラを、強烈な波動がしたたかに打ち据えた。


 がばりと身を起こし、虚の入り口に手をかけて周囲をうかがう北斗。だが、ここからでは死角になっている方角であり、その詳細は見ることが出来ぬ。


 すぐ近くで、魔力がぶつかりあっている。それが魔族同士の戯れか、それとも弱肉強食の宴か。


 そのどちらかならば、まだいい。


 問題は。


「生き残りが!?」


 自分たちよりほかに、この世界の近くに呪術師がいるというのか。


「行きましょう」


 ルスティアラもまた、北斗を追って立ち上がる。


 眼鏡の向こうで、靄の晴れた眼をした北斗が短く頷き、そして虚から飛び出した。すぐ横の岸壁を猿のような格好でよじ登り、淵にたどり着き。




 そして、北斗は見た。


 それは、隣の陥没孔の底で戦う男の姿であった。


 スーツのあちこちが裂け、首筋には滝のような汗が疲弊を物語っている。髪は汗で濡れ、口髭の奥から吐き出される呼気は乱れ、荒い。


 彼の周囲には、実体化した悪魔が三体。爬虫類のような蒼い鱗に包まれた巨躯と翼、そして何より厄介なのが、その躰を取り巻く魔力。


 間違いなく、高位魔族であった。


 やや遅れて淵にたどり着いたルスティアラは、その光景を見るなり悲鳴交じりの呼気を吐き出す。


「アレクセイ!?」


 だが、その声は歪み、途絶えた。北斗の手が悲鳴を上げようとするルスティアラの口を塞いだためであった。


 明らかにアレクセイは疲れきっていた。その戦いが一体どれほどの間、続いているのかは見当がつかぬ。しかし確実なことは、魔族はいまやアレクセイに対する勝利を毛程も疑うことはなく、まるで獲物を嬲り殺しにする過程を愉しんでいるようであった。


 周囲を取り囲むことで、アレクセイの死角を確実に突くことが出来る態勢に位置し、そしてアレクセイの魔術喚起の際の精神集中の隙を突いて、じわじわと爪や翼、腕による直接打撃を加えているのだ。


 その度にアレクセイは術を中断させられ、浅い傷を無数に負っていた。当初は無数のタロット・パスワーキングによる霊装を施していたであろうアレクセイには、いまや何の防禦手段も残されてはいなかった。


「助けないと……」


 今まさに斜面を下り降りようとするルスティアラの二の腕を、北斗の指が捉えた。


 最初は意味がわからなかったルスティアラであったが、それが自分の行動を阻む意志によるものであることを知ると、鋭い視線で振り仰いだ。


 無言ではあったが、明らかに制止する北斗に抗議の意を込めた視線であった。


「今向かえば、我々もあの魔族の贄になるでしょう」


 多勢に無勢。しかも、あのような高位魔族を相手にすれば、何が起きるやも知れぬ。


「隙を突きます。大丈夫、息があれば私の術で忌魔は」


 アレクセイの癒しは受け持つ、と言葉を続けるよりも早く、ルスティアラは渾身の力で北斗の指を振り払った。


 名を呼んだ時にはもう遅かった。ルスティアラはアレクセイの名を呼んでまろび寄る為に斜面を滑り降り、そしてアレクセイは魔族に包囲されつつもルスティアラを拒絶する仕草を取る。


 注意が逸れたことに憤りを感じたのか、それとも敗北を決定されつつも仲間を気遣う余裕に腹を立てたのか。


 魔族の翼がぐいと広げられ、その先端にある鉤爪でアレクセイを打つ。短い悲鳴を上げて倒れるアレクセイは、既に体力の限界を迎えていた。悲痛なルスティアラの叫びが空を裂き、そしてこれ以上の傍観は意味がないと判断した北斗が戦いに身を投じる決意を固めた、そのとき。


「八剱や 花の刃の此の剱 向ふ忌魔を 草薙にせむ」


 異界の只中において、その凛とした声に導かれるように神気が渦を巻く。


 それはアレクセイを囲む三体の魔族を取り巻き、震撼し、そして確実に魔族の力を奪い去っていく。


 それだけではなかった。淀む気を打ち祓うかのように、裂帛の気閃が轟く。神気から清浄な気の流れが迸り、その流れの一つ一つが不可視の刃となり、身動きの取れぬ魔族らの躰を貫いた。


 うねる筋組織と固い鱗をものともせず、刃は魔族を串刺しにし、引き裂き、貫き、耐え難い苦痛を浴びせていく。


 三体のうち、二体は即座に瘴気を取り込み、力を快復させる。だが既に戦意はなく、集めた力も宙空に生み出した空間の歪みに身を投じるだけであった。


 深手を負ってはいたが、かろうじて命はあったらしい。


 だが残る一体は確実に急所を貫かれ、神気の剱を浴びた時点で絶命していた。


 逃げ道となる通路を召喚することも出来ず、巨躯を横倒しにする魔族の傍らから、ルスティアラは素早くアレクセイを引き出した。


 膝をつき、怪我の具合を調べるルスティアラを尻目に、北斗は先程の神気の渦と神剱を操った術師の気の道を辿っていた。


 呪を紡いだ言葉は、確実に言霊。しかもその韻律は確実に大和言葉、さらに言うならば祝詞と呼ばれる類のものであった。


 そして北斗が知る限り、その系列の呪術を使うことが出来る人物は一人だけ。


「おいでなさい! いるのでしょう、梓!」


 北斗の声に導かれるように、彼らとは反対側の陥没孔の淵の影から男装のままの梓が姿を現した。


 彼女の流派は神祇調。いかに高位魔族とはいえ、退魔調伏としては凄まじい威力を持つ呪術流派であった。


 手に神垂を結んだ榊の青枝を持ち、その力によってあれだけの神気を操るとは、たいした腕前を持っていることは一目瞭然。


「驚いたな。お前も既に、一人の仇の命を救っていたか」


 顔色一つ変えぬ梓の声から、北斗は彼女が侮蔑を込めた言葉を吐き出していることを感じていた。


 事情を知らねば、いやつい先刻まで、恐らく立場が逆であったならば同じ態度を取っていたことだろう。


 説明をすれば、梓は分かってくれるだろうか。いや、梓は自分の言葉を聞き入れてくれるだろうか。


 意を決し、北斗は口を開こうとするが、それよりも僅かに早く梓は視線を逸らした。


「まあいい。いずれ納得のいく説明をしてもらうぞ」


 梓は北斗に背を向けると、そのまま立ち去ろうとするのか数歩を歩みだす。


 その歩みはいかにも遅く、まるで自分を誘ってでもいるかのようでもあった。梓の真意を推し量りきれず、戸惑う北斗に対して梓は首だけを捻って振り返った。


「すぐ隣の孔の底に、曼華経の少年が倒れている。急いでくれ、墨曜師」

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