間章ⅩⅩⅩⅡ<裁焔 -Judgment Blaze->
かつん、かつんと誰もいない廊下に、ヒールの底が音を立てる。
階段を上り、リノリウムの床に染み込んだ喧騒がすっかり蒸発してしまった廊下を、一人万葉は歩く。
無論、教室には誰も生徒は残ってはいない。下校時刻はとうに過ぎ、熱心な運動部の影も、今日はない。陽は落ち、廊下に並ぶ窓から差し込んでくるのは橙の光の残滓に代わり、ひっそりとしめやかな闇であった。
そして闇は、万葉を誘う。
用があって来たわけではないのに。
ゆっくりとした足取りで、万葉は教室を眺めていく。昼間はここで百人を越える少女たちが学び、遊び、語らい、ぶつかりあっている場。
しかし今の空間には、その名残を見ることしか出来ぬ。
思えば、学校とは不思議な空間なのだろうと、万葉は思う。
静と動、陰と陽の明確な場所。それは祭りの場所に似た、現実と非現実の境界線。その場に住む者はない代わりに、各々の場所から集まり来る者が語らい、そしてまた散っていく。
学校で見せている、一人一人の表情は、彼女たちの本当の顔なのかどうか。
教師として勤め始めてから、ずっと追いかけ続けている、一つの問題。
それが如何に難しいことか。
高校生ともなれば、それなりに人間関係は複雑になる。ランドセルを背負って学校に向かう小学生のように、世界は学校と家庭に限定されることはほぼなくなっていく。
一人一人の世界に、私の居場所はあるのかしら。生徒がふと、自分の世界を振り返ったとき、出会った人々を思い返したとき、私はそこに列席することはできるのかしら。
万葉は、最近になって、生徒の中に自分の居場所をつくるためのやり方など存在しないことに気がついた。
それを目的にしてはいけない。
自分が全力で生徒に接していく過程において、生徒がおのずと心を開いてくれることにより、信頼という名の副次的産物として起きることなのだと。
ひっそりとした廊下を歩いていた万葉の足が止まった。
闇の中に、懐かしい匂いを感じたからだ。
すぐには記憶の回路を探り出すことはできない。それよりも先に、圧倒的な感情が万葉の胸の琴線を打ち奏でていく。まるで、川面すれすれに張られた銀線に流水に乗った落ち葉が触れることで完成する音楽のように。
鼻の奥がつんとし、鼻梁の脇を温かい雫が伝う。
全身を包むぬくもり。
まるで頭からつま先までをすっぽりと厚い生地でくるまれたような、それでいて閉塞感を感じぬ闇。
何処かから騒がしい音が聞こえてくる。
「其は天の使徒にして封縛を司る者よ」
聞こえてくる騒音と激しい息遣いは、何処かで戦っている光景を彷彿とさせた。
否、戦いは厳然として存在するのだ。自分のすぐ近くで、すぐ親しい者が。
「白銀の琴にて奏でよ訃音の旋律!」
低い男の声の詠唱。
強い焦燥感が、流れ込んでくる。
早く、速く。この地を去り、一刻も早く、日本へ。
時間がない。雑魚を相手にしている暇など、ないのだ。
「芹奈……アレをやるぞ。MODEは炎だ」
ふっと、抱擁の闇が薄れた。流れ込んでくる外気は冷たく、血と汗と煙の匂いに汚れていた。しかし、そのような穢れを意識する必要はどこにあろうか。
「Wake up,ADEPT……blaze mode」
男の声に促されるように、自分もまた言葉を紡ぐ。
「Open the door,calling Glay-Fortune」
ぞわりと総毛立つ感触が全身を包み、精神が異常なまでの高揚感に支配される。
不快感はない。
支配者。その文字が脳裏で何度も点滅する。
そう、魔術的精神状態に陥った術者と同じ感覚であった。力ある意志、魔術師に求められる最大の、そして最も困難な条件。
『天の縛鎖打ち砕きし衝烈、地の封縛斬り絶つ轟波よ、汝らが奏でし悠久の怨曲にて示し顕せ焦熱の冥路。彼の地にて踊り呪うは狂念の祭祀、授け賜うは炎帝の抱擁。我、幾万の眷族と願い奉らん、王たる者共の再臨を』
男性と少女、二つの声によって同時に唱えられる呪句。同時詠唱により、共通の幻視観想を実現させ、魔術の相乗効果を狙う。
支えてくれるのは、温かく、固く、そして大きい、男の手。
『judgement blaze!』
二人の声で呪句が締めくくられるのと同時に、万葉は現実へと戻ってきていた。
「お父さん……」
万葉の形のよい唇が動き、言葉を発する。
時を越え、世界を越え。
異界の地で解き放たれた九朗の気は、確実に万葉――いや、芹奈の精神にも届いていた。だが、芹奈の精神拘束付加呪紋は、まだ健在であった。
記憶の断片が統合される時は、まだ。
写本<輝ける御遣い>もまた、万葉の元で深い眠りの只中にあった。
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