第三十二章第二節<石魔>

 まるで小動物を追い詰めた猛禽類のような眼が、じっと二人を見下ろしている。その数はざっと五十を越える。


 沙嶺は快復した視野に無数の悪魔を捉えつつ、雅と周囲の状況を判断する。


 不思議な感覚であった。指先にすら鼓動を感じるほどに研ぎ澄まされた神経を持っていながら、胸のうちには凄まじい攻撃衝動が渦巻いている。そのくせ、頭の後ろにやけに冷たい感触を感じるのだ。


 無論、相手には自分たちを生かしておくつもりはないのだろう。脚力を持って逃げるには、雅の体力が保たない。第一、身を隠す場所が極端に少ないこの場所では、下手に逃げることは自らの退路を放棄することにも繋がるだろう。


 数、環境、いずれもこちらが圧倒的に不利であるのは言うまでもない。そして頭上を包囲されてしまっている現在、少しでも有利な地形まで移動して迎え撃つという方法も取ることは困難だ。


 ――乱戦か。


 沙嶺は一種、諦観にも似た視線を悪魔に向ける。


 その表情を、相手は絶望と読んだか。金属を打ち合わせるような不快な声を上げると、数匹が翼を広げ、滑空を開始してくる。


 沙嶺は僧錫を一度打ち鳴らすと、右手で素早く結印。曼華経の術を西洋の魔に試したことは一度もない。だが、やらねばなるまい。


おん 婆曰羅乃里ばさらぎに 波羅乃波駄曳はらちはたや 娑縛訶そわかッ」


 荘厳行者法、被甲護身。


 本来、観想時の煩悩より身を護るための如来加護を賜る真言を用い、自分と雅に神の守りを宿させる。


 襲い掛かる悪魔の爪を錫で払い、その勢いのまま別の悪魔に向かって刺突を繰り出す。状況を察していた雅も、一度に四匹の悪魔と応戦する沙嶺の周囲の二体の眉間を、恐ろしく正確な射撃で打ち抜いた。


 それを見た沙嶺は、雅の腕前よりもまず、物理的な干渉が有効であることに驚いた。


 銃による射撃が有効であるということは、霊的な存在が限りなく現世に近いということを現していた。そうでなくとも、東洋の霊存在が現世に現れる際には、ほとんどの場合が希薄な存在として生まれることになる。


 諸説こそあれ、東洋においては神という存在が多義的な解釈の元にあり、またアニミズムという原初信仰にも似た多神教の流派を取っていることにより、霊存在が依存できる環境が非常に限定されているせいだとされているからだ。


 それに対し、西洋においてはキリスト教圏が大半を占めており、神と名のつくものは常に唯一の存在である。単一であればこその加護と奇跡の発現は凄まじいが、それゆえに死角も多い。


 熾天使ルシフェルにおける天界叛乱劇もその一つであり、故に絶対不可侵な領域が限りなく狭いのだ。


 本来、自力で霊存在が実体を持つことは困難を極める。受肉という過程自体、非常に高位な技能であるせいで、文献的にも名のある魔族にしか使うことは出来ない。


 しかし触媒を用いた憑依という手段でなら、下級存在も現世に干渉することは出来る。


 弱点は、触媒を何らかの形で破壊、もしくは聖別された場合であった。破壊されればそれ以上の活動は困難になるし、清められれば霊存在にとっては耐えがたい苦痛となる。一端、憑依の状態が失われてしまえば、再び憑依ができるまで、霊存在は無力になってしまうからであった。


 続く射撃でさらに数体の悪魔が活動を停止し、沙嶺の見ている前で石の像と化し、ぼろぼろと風化するように崩れていく。一般では西洋神学においてはガーゴイルという呼称を持つものであったが、沙嶺は無論知る由もない。


 いや、必要がなかった。


 霊存在を打ち祓うには、相応の呪力が必要となる。だが物質依存の状態であるなら、単に物質を破壊しさえすればいい。


 錫を縦に捧げ持つと、一度金環を打ち鳴らし。


おん 婀蜜哩帝あみりてい うん 発吨はった!!」


 軍荼利明王の真言を裂帛の気合と共に叩き込む。


 沙嶺の姿と重なるようにして観想が霊気によって明王像を作り出す。調伏の呪力が荒れ狂う嵐となり、悪魔の大軍を包み込む。


 虞風にも似たその渦に触れた悪魔は次々に卒倒し、そして石像を打ち砕かれ、浮遊する下級霊となって何処へかと飛び去っていく。


 次々に雲散霧消していく業の気配に、沙嶺はふと気を抜いた。


 今の術であればあれだけの悪魔は一掃出来たはずだ。もしあのデヴィルがもっと高位なものであったのだとしたら、石像から抜け出たのちも非実体として襲い掛かってくることがままある。


 最初からその術を使わなかった理由は、それであった。


 かつん、と錫を降ろした沙嶺は、だがはっと眼を開いた。


 業がまだ完全には消えてはいない。六道へと続く輪廻の門はまだ閉じてはいないのだ。


 続く雅の悲鳴。


 振り向く沙嶺の視界に、まだ動ける悪魔がいた。


 その数五匹。先程の如来の加護は、沙嶺が別の術に集中した時点で、弱まっていたのだ。


 施術者から離れても術はまだ残るが、雅自身の呪力は一般人と大差はないため、ほぼ護りは消えていたのだ。


 雅の銃撃の隙を突いて反撃に転じた悪魔たち。


 沙嶺の場所からでは間に合わぬ。錫を投じたとして、それで屠れる悪魔は一匹か二匹。沙嶺の中で、何かが蠕動した、その瞬間。


 悪魔の肢体を、突如として魔を込めた風が絡め取った。


 抵抗する時間はない。瞬時に崩壊する悪魔たちに、沙嶺は眼を見張った。


 自分は何もしていない。雅には、そもそも風を生み出すほどの力もない。


 だが誰何の言葉は必要なかった。いつの間にか、岩の十字架の一つの台座に、一人の青年が腰掛けていたのだ。


 沙嶺は知らぬ男であった。雅は、見覚えがあった。


 名はサミュエル・リンドバーグ。エノク術師の一角を担う男であった。

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