第三十二章第一節<美貌の僧侶>

 精神と肉体の双方を包み込み、じわじわと侵食してくる瘴気の抱擁をかなぐり捨てるような銃声が響いた。


 天を突き刺すような、岩で出来た十字架の立ち並ぶ異界は彼方まで続いているかのようであった。一定の間隔として並んでいる場所もあれば、自然の造形であることを殊更に主張しようというのか、不規則になったりもする。


 結果として、その下を縫うように進む者の視界は著しく制限されることとなる。視界が十字架の台座となる石材のような岩塊によって遮られることで、さらに追撃は困難であるが身を隠すには絶好の場となってしまう。俯瞰の地点からすれば一目瞭然となる状況も、二次元に限りなく近い視点からであれば大きく劣ることと同様。


 そしてさらに厄介なことに、その不利な条件のもとで、追撃が行われていたのであった。


 雅は疾走を続けながら、時折銃撃による威嚇射撃を行っている。そのため、これまで攻撃らしい攻撃を受けたことはなかったが、それでも雅の焦燥感は隠せなかった。


 そう、もし雅が孤独な戦いを続けていたとすれば、銃撃しか身を守る手段のない彼女はとっくに命を落とすか、おかしくなってしまっていただろう。


 雅の隣を、同じかやや速い速度で走り続ける僧、沙嶺がいなかったとしたら、である。


「それくらいにしないと」


 隣を走る沙嶺は、視線を交わすことなく忠告する。攻撃が物質に頼っており、そしてまた銃弾が消耗品である以上、補給の出来ないこの状況では使用制限のある武器なのだ。


「うん、でも……」


 雅は銃の構えを解いて、ちらりと背後を見やる。翼を持って、鳥の速度で移動する、人程度の大きさの生き物。そのような動物は、現実世界では決して見られなかったものなのに。


 仏教圏概念における鬼、それがこの異界では別解釈がなされているのであろう。


 原則は同じ、この世界における大原則戒律に背くことで蓄積されるカルマが一定量に達した時に生じる、霊魂変質であった。二人はその呼び名を知らぬ――キリスト教圏における、悪魔という呼称を。


 


 十字架の林立する地帯を走りぬける頃には、悪魔による追撃はなりを潜めていた。


 一際巨大な岩塊の陰に背を押し付けるようにして身を隠し、雅と沙嶺は息を整えていた。修験修行で体力を培った沙嶺とは違い、雅はこれ以上走り続けていたら限界をすぐに迎えていただろう。顎から汗の雫を落とし、肩で息をする雅から顔を逸らし、沙嶺は紫の雲と暗い色の雷撃の渦巻く空に目を向ける。


 影は見えぬ。岩に手をつき、周囲の気配を探る沙嶺に、雅は不思議そうな視線を向けていた。


「ホントなのね、沙嶺……」


 雅の声に気づき、沙嶺がふと顔を伏せる。


「何がだ?」


「……目、見えてるのよね?」


 皇城までであれば、しっかりと閉じられていた瞼が、今は押し上げられていた。


 露になっているのは白銀の瞳。ともすれば、瞳孔と白目の境界線が明確でないために、白濁した瞳とも見られるそれは、現在はしっかりとした視界を沙嶺にもたらしていた。


「……見えているよ」


「何が原因だったんだろうね」


 雅は小袖のあちこちから銃弾のストックを取り出し、確認しながら装填していく。


 見えぬ姿が自然なのか、見える瞳が当たり前なのか。光を持つ者と持たざる者にとって、その両者ともが真実であり、逆は異能である。


 そういえば、雅は沙嶺の目が見えぬという障害について、ほとんど知らなかったことを思い出す。


「ねぇ、一つ聞いてもいいかな……沙嶺の目のこと」


 失礼なこととは知りつつも、聞かずにはいられぬ。それは、他ならぬ自分の目の前で沙嶺の盲目の瞳が、開いた驚きによるものなのかもしれない。


 沙嶺が頷くのを確認して、雅はおずおずと問いかけた。


「沙嶺の目が見えないのは、生まれつきだったの?」




 沙嶺には、幼少時の記憶がない。父親との触れ合いも、母親の温もりも、記憶にはないのだ。


 記憶にあるのは、寒い畳の部屋と、一日に三度出される食事、そして遠くの母屋で聞こえてくる楽しげな談笑。


 師走の小春日和、沙嶺はとある商家の跡取りとして生を受けた。しかし何より家人の頭を悩ませたのは、沙嶺の父親が誰なのか、とうの身篭った長女にも分からなかったのだ。


 父親は激昂し、長女に問い詰めるが、もっとも混乱しているのは長女であった。貞淑を失った記憶などあるはずもなく、かといってある日突然腹が膨れてきたのでは、答えようもない。瑿鬥えどでは名のある商家だったためにそのような不祥事など知られては一家の汚名ともなってしまう。


 仕方なく、父親の分からぬ盲の赤子は座敷牢に閉じ込められ、そこで育てられることとなったのだ。


 光を知らぬ沙嶺は、そこでの生活をあるがままに受け入れた。


 成長していくにつれ、瞳の光の代償といわんばかりに美しくなっていく、性差を越えた沙嶺の美貌もまた、家人の妬みの対象となったのであろう。


 だがそうした生活も、沙嶺が十五の年で終わりを迎えた。


 その日、商家を訪ねてきたのは二人連れの僧であった。


 曰く、憑き物を祓っていたのだが、それがこの家に逃げ込んだのだという。僧を迎え入れた主人は、言葉に導かれるように屋敷の中を案内し、そして驚愕に目を見開いた。


 僧に言われるままに向かった先は、何と沙嶺を閉じ込めていた座敷牢。


 霊能のない主人には見えるはずもなかったが、座敷牢に足を踏み入れた僧もまた、驚きの波に躰を奮わせる。


 背を伸ばし、正座している沙嶺の膝の上に、怯えきった狐霊が丸くなったまま震えているではないか。それも、沙嶺はその動物霊を慈しむように、何度も撫でていたのだ。


 動物霊が沙嶺の元に庇護を求めたこと自体信じられなかったが、それよりも暴れ狂った動物霊をこの短時間で鎮めてしまった沙嶺にどのような力があるのか、それが僧らの興味を引いた。


 僧は沙嶺を引き取りたいと申し出、そして主人も気味の悪い人間を抱え込むほど物好きではなかった。


 こうして、沙嶺は僧侶としての道を歩むことになったのであった。




「生まれつき、だな」


 沙嶺は遠くを見るような表情で、答える。


「だけど、不思議なんだ……今まで、どう考えても知らないような……そんな光景が記憶の中にあるんだよ。月夜の空を鳥のように飛んでいたり、見たこともないくらい綺麗な泉のほとりだったり」


 文字を知っているのなら、想像することも出来るだろう。伝え聞いたこともあれば、あたかも経験したかのように記憶することも出来るだろう。


 だがそのどちらも、沙嶺には出来ぬことであった。


 それなのに、沙嶺の脳裏には恐ろしいほどに明瞭に、その光景が焼きついているのであった。


 じっと、膝に頬杖をつきながら沙嶺の話を聞いていた雅は、何度か頷くと、立ち上がって裾をはたく。


「そろそろ行きましょ、そうじゃないと、また」


 雅の言葉が、沙嶺の緊張を感じて消える。


 振り仰ぐ視線の先。


 十字架の細い枝の部分に、何十というデヴィルの群れが、じっとこちらを睥睨していた。

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