第三十三章第一節<嘆きの聖堂、トロメア>

「地獄、だね」


 光照は、異界の空を見上げつつ、そう呟いた。


 地獄という言葉自体は、仏教の概念の中にも組み込まれている。無論それも観念的なものではあったが、己の知る地獄とは似ても似つかぬこの光景に、眉をひそめているのは隣を歩く宝慈である。


 仏教における地獄の概念とは、元はサンサーラと呼ばれる輪廻転生の概念であった。これが仏教の拡大と発展と共に変化し、現在のような一般的な認識としての六道輪廻説へと姿を変えたのである。


 地獄という言葉自体、当初の中国の宗教思想には入っていなかったとされる。インドにおけるサンスクリット語の奈落迦、それが読みを転じさせ、日本に来た経路で「奈落」という言葉にさらに変化。八熱地獄にはじまり、ほぼ無限に続くとさえいわれる仏教界の地獄。


 だがここは、そんな場所ではないように思えた。荒涼とした風景は、まるで悪夢の中にでも彷徨いこんでしまったのではなかろうかと思えるほどに殺伐としていた。


 緩く波打つ大地のそこかしこには、放棄された廃墟のような建造物の名残が点在している。折れた円柱、ひび割れた石段、四散した石畳、そして崩れた壁。足元には無数の石片が散らばっており、それらはまるで地震の直撃を蒙った都市の残骸を思わせる。


 人の気配はなく、吹きすさぶ風の音には微かに人の悲鳴のような不気味な響きが混じっている。


 時折、視界の隅に人の顔を見てぎょっとすると、それは半壊した石像であったりするのであった。


「われを過ぎれば憂囚のまちあり。われを過ぎれば永劫の苦患あり。われを過ぎれば滅亡の民あり。正義わが貴き造物主を動かし、聖なる力、比類なき叡智、根源の愛、我を造れり。永遠なるもののほか、我より先に造られたるはなし。しかして永遠に我はあり。汝らここに入る者、一切の望みを捨てよ」


 光照は古典の一節を暗誦した。その言葉の響きは大和言葉にはない、独特の韻律を持っていることを、第三の同行者は敏感に感じ取ったようであった。


「何だ、それは?」


 眉間に角を持つ、唐衣を纏う鬼乙女、舞であった。北斗を救うために戦いに介入してきた舞もまた、あの堕天奈落の渦に捕獲されてしまったのであろう。


「五百年以上も前に書かれた、西洋の文学作品の一節だよ。書いた人間は、確かダンテと言ったかな」


 光照の言葉遣いや態度は、舞を前にしても一向に変わる気配がない。


 最初は敢えて人を小馬鹿にしたような態度を取っているのかとも思っていた宝慈ではあったが、ここまで堂々としているとかえってそれが光照の個性にも見えてくる。


 天性、か。


 軽口を叩かれているのだが、不思議と怒る気にもなれない。怒ることすら馬鹿馬鹿しいと諦めて聞き流していると、ふとしたときに光照の言葉に微笑みを漏らしている自分に気づく。


 相手に乗せられているという感覚はないのだ。最初は警戒をしていても、言葉を重ねていくうちに知らずのうちに胸のうちを晒している。


 これが、人徳というものか。


 綾瀬の紹介で初めて会ったときには気づかなかったが、一介の吉原の用心棒の剱客が、仲間を助けたからというだけで皇城内に招かれることなど、普通では考えられぬ。


 そればかりか、侍従長ほどの者に、自分たちをも受け入れてくれるよう、口利きをするとは。


「お前の話が本当だとして」


 舞は大きくくびれた瞳孔で天を仰ぐ。


 妖の持つ、鬼神の力で見る光景は、自分たちの見るものとどれほど違っているのだろうか。


「わらわの神通力すら通じぬ世界に迷い込まされたとは……にわかには信じ難いのだが?」


「天を駆ける車かあ」


 光照は知る由もないが、宝慈は舞の神通力をその眼で見ていた。


 西の結界、天沼八幡から帝都へと帰還する際、ものの半時間ほどしかかからなかったあの車があれば、この異界の中でも少しは探索が楽になるだろうか。宝慈の胸中にはそうした思いもあったが、それを口に出す前に舞い自身の言葉で否定されてしまう。


 恐らく、舞もまた口には出さぬだけで、幾度となくあの光る車と天女を呼び寄せる妖の術を試していたのだろう。


「たぶん、原因は、外国の魔術師たちだろうね」


 光照は、自分の考えに基づいた仮説を口にした。


 この地獄の光景は、紛れもなく西洋における地獄観によるものである。では、どうして日本において西洋の地獄が誕生するのか。


「たぶん、あいつらは俺たちをまとめて自分たちの地獄に堕とすのが目的だったんじゃないかな?」


 光照の言葉には、何の確証もない。それなのに、残る二人は足を止めた。


「どういうことだ?」


 舞の声が緊張を帯びる。


「外国の奴らの目的が、日本の呪術能力者の殲滅だとしたら、ありえなくはないって話だよ。まあ、もしそれが本当なら、これと同じ規模の霊的破壊を日本の霊山全てにおいて、発生させることになるだろうけどね」


 帝都東享の破壊を嚆矢として、日本の大都市である京都、神戸、そして比叡、高野を初めとする大小の修験霊山の徹底した霊位の簒奪と破壊。それは我等の予想を遥かに越えた、呪術的侵略戦争ではないか。


「少なくとも……ボクには、西洋の魔術を少しだけど知ってる部分があるからね。もし何かに気づいたときは、すぐに知らせるよ」


 歩きながら、光照は行く手を何とはなしに眺めやる。


 翼を広げた、首のない石像が胸の前で両手を合わせている。


 それは恐らく、天使なのだろう。廃墟となった聖堂など、地獄には不釣合いなものに思えたが、まさにそのとき、光照の脳裏に一つの知識が浮かび上がる。


 トロメア。


 それは地獄の領域の一つであり、第九圏最下層の第三領域となる。限りなく中心に近いその場所は、大司祭とその子供たちを残忍なやり方で処刑したエリコの隊長、プトレマイオスに由来するという。


 非道な力によって踏み躙られた信仰。


 それが、破壊しつくされた聖堂という形状をもって、このトロメアに残留しているのだろうか。


 光照は大きく息を吐くと、視線の中を黙々と歩いていく宝慈と舞に置いていかれないよう、歩幅を広く取った。

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