第三十一章第三節<答えの見えぬ迷宮>

 周囲の岩の形状は、距離が進むにつれて変化していた。


 直方体を崩したような形状の岩がいくつも地表に突き刺さっていた海岸地帯とは違い、ここでは擂鉢状に地表が抉れていた。円形に陥没した場所が無数に続いており、僅かに無傷な地面が細い畦道のように続いているだけであった。もし平坦な道を行こうとしようものなら、恐ろしく非効率的なルートをたどることになる。


 しかし陥没孔の深さは一定ではなく、僅かに高度が下がっている程度の部分もあった。


 結論として、北斗が選択したルートは浅い陥没孔については凹凸を無視した直線経路をとるものであった。




 北斗は足場の確かさを確認すると、腕を伸ばして先にある突出した岩を掴んだ。ごつごつとした表面から突き出るように並ぶ、ざらついた感触が指先に痛みを生んだが、北斗はそれには構わずぐいと力を込め、体を引き上げる。


 さほど急ではない傾斜ではあったが、表面は細かな砂で覆われている。油断して足を滑らせて転倒すれば、運が悪ければ岩に激突して思わぬ怪我をすることもあるだろう。


 用心するに越したことはない。


 北斗は縁の上に顔を出して傾斜の終焉を見ると、そのままの態勢で首を後ろにひねり、続いて上ってくるであろうルスティアラを見下ろした。


 長衣の為と、慣れぬ運動に筋肉は悲鳴をあげ、美しいブロンドの髪は汗で額に曲線文様を描くように張り付いている。幾度も汗を拭おうとしたのか、額や頬には無造作になすりつけられたように、泥がこびりついている。


 憔悴の色が隠せぬ顔で、ルスティアラは一度視線に気づいて北斗を見上げる。


 北斗の瞳には、感情と名のつくものは込められていなかった。しかし、それは同時に北斗の冷徹さを示すものではなかったのだ。


 深い思慮の淵に、北斗はその意識を沈めていたからであった。


 だがそのような事実を、他人であるルスティアラが知る由もない。自分が受け入れられぬ苦痛を味わいたくないと言わんばかりに、ルスティアラは顔を伏せ、懸命に震える腕で躰を支えようと、足に力を込め。


 その躰が、がくんと急に沈んだ。


 足場にしていた岩が、しっかりと固定されていなかった為に、ルスティアラの体重を支えきれなかったのである。


 落ちる。バランスを崩した時の、全身の神経が一瞬で混乱を来たす感覚がルスティアラを襲う。


 意志が麻痺し、同時に筋肉が硬直する。


 己の躰が意志を離れ、自在にならぬ瞬間。


 動揺した躰が起き上がり、さらにバランスが崩れる。斜面から躰が離れ、後ろに倒れこむ。


 大きく見開かれたルスティアラの瞳が、虚空に飲まれるよりも早く、北斗の腕が伸びた。


 咄嗟に掴んだのはルスティアラの肘と手首の間。大きく身を乗り出し、激しい動きに服越しとはいえ肘をしたたかに岩に打ちつけながらも、北斗はルスティアラの落下を阻止する。


 完全に制御を失ったルスティアラの躰が一度宙を舞い、そして北斗に掴まれた腕によって再び地表へと戻ってくる。


 激しく胸と腹を激突させ、痛みに顔をしかめるルスティアラ。


 しかし、事故は終わってはいなかった。


 まるでルスティアラが足を滑らせたことが契機となっていたかのように、擂鉢状になっていた底の岩盤が砕け、姿を現した深淵に吸い込まれていった。同時に凄まじい大気の吸引が起こり、不完全な態勢のままの北斗自身の躰が、闇の中に引き込まれていく。


「くっ……!」


 北斗はまだ吸引の力が弱いうちに急いで自分の躰を引き上げ、足場を確保する。しっかりと陥没孔の淵に指をかけ、その上でルスティアラをゆっくりと引き上げていく。


 ルスティアラの細い肘の関節と筋肉、そして腱が上げる軋みを感じつつ、北斗はそう長くは保たないことを直感した。


 もう少し、耐えてください。


 そう励まそうとした北斗はそのとき、信じられない言葉を耳にした。


「……なん、で……?」


 深淵を背にしたルスティアラは、自分を救った北斗に対して驚きのまなざしを向けていた。


 どうして、か。


 無理もない答えだ。それが、己が彼女に強いたことならば。






 あの時、ルスティアラを死の海岸から救ったことは正しいことだったのかどうか。


 殺したいという本心は、嘘でも脅しでもなかった。そしてそれが当然の感情なのだろう。


 あの時に葛藤を感じはしたが、それは限りなくルスティアラの死を願う方向での戸惑いであった。


 生殺与奪の一切の権限を与えられた立場。しかし現実にそうした場面に直面した北斗は、冷酷な選択ができなかった。


 死を与えるという行為に恐怖を感じたからではない。


 今でもそうだ。祖国を破壊した憎き敵の魔術師であるルスティアラの手を離せば、彼女は成す術もなく奈落へと落ちていくだろう。


 だがそれは、日本の呪術集団のしていることと、同じなのだ。


 北斗は周囲の状況から、帝都の堕天奈落フォウル・ダウンに対する日本政府と高野、比叡山の呪術師集団、さらには国家神祇調の動向を敏感に察知していた。


 あの霊力の波は、生半可な術では食い止めることは難しい。かといって、日本全土が堕天奈落に飲まれていたのであれば、この世界にも無数の日本人の死屍が累々と積み重なっているはずである。


 それなのにここにある死体はみな、西洋人のもの。


 とすれば、日本政府は我々を見捨てたということになるだろう。


 堕天奈落は防ぎようもないが、それが拡散することは御免蒙る。つまり帝都という最小限度の犠牲を捧げることで、西洋術師による被害を封印、隠蔽したのだ。


 そもそも、自分が術を学んだのは自らが欲してのことではなかった。たまたま土御門の秘術を継承する血筋に生を受けたがゆえ。そして血筋を重んじる場合には大概が同じであるように、その知識は門外不出。学びたい者が学べず、学ぶ運命にある者しか学ぶことが出来ぬ。


 そのような歪んだ環境で、どうして実力のある呪術師が育ち得ようか。土御門の家紋と名誉に泥を塗ることは出来ない、という家訓を題目のように唱えながら、本当はそんなことを何一つ、自分は信じていなかったのだと、北斗は理解したのだ。


 他者を見限る地位を得るために呪術を学んだのではない。


 そして、呪術は他者に対して圧倒的優位に立つための、保身の道具ではない。


 ここで手を離せば、自分は助かる。しかしそれでは、保身の為に自分たちを見捨てた日本政府と、何等変わるところはないのだ。


「大丈夫です……」


 北斗は自らに言い聞かせるようにそう呟くと、ルスティアラをゆっくりと引き上げていった。


 ルスティアラの躰が半ばほどまで引き上げられると、恐ろしいほどの勢いを持って暴れていた奈落の吸引はふと止んだ。恐らくはルスティアラの持っていた生者の精気を欲する魔族どもの罠であったのだろう。


 乱れた息のまま、肩を上下させるルスティアラを北斗はしばし眺めているだけであったが。


 やがて考えがまとまったかのように一つ頷くと、口を開いた。


「先程、私にどうして助けたのか、と質問をなさいましたね」


 ルスティアラは言葉によってではなく、首肯によって認めた。


「正直、どうして助けたのか、私にもよく分かってはいないんですよ」


 その答えが虚偽であると考えたのか、ルスティアラの眉間に皺が寄る。


「確かにあなたは東享を破壊した。しかしそれには何か理由があるのだろう。しかしそれでは、命を落とした者が救われぬ。だがそれは事実の一面しか見てはいないのではないか」


 北斗の口から、交互に相反した見地の意見が繰り出される。


「結局、結論を出すことは出来なかったんです、ただ、躰が動いた。あなたを助けることが、当然であるかのように」


 北斗は自嘲気味に笑って見せ、そして視線をルスティアラから逸らす。


「落ち着いて考えるには、ここはいささか不似合いな場所ですからね……ここを出るまでは、休戦協定を結んだほうが賢いんじゃないでしょうか」


 これがもし西洋術師の罠であるなら、彼女はあの時、驚愕と恐怖に満ちた顔など浮かべはしない。現時点だけを考えれば、自分たちが置かれている立場は限りなく同一なものなのだ。


「……日本人の考えることは、よく分からないわね」


 陥没孔の斜面の中腹にできた、虚のような空間に身を潜めていたルスティアラはそう微笑むと、外の様子を伺うために顔を出す。罠はルスティアラを飲み込むことを諦めたらしく、再び静寂が支配する空間となっていた。


 それならば、一刻も早く地表へと戻らなければ。


 そう考えた北斗が、ルスティアラに立ち上がるように促そうとしたときであった。


 二人の感覚に、すぐ近くで荒れ狂う魔力の気配が、出し抜けに飛び込んできたのだった。

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