第三十一章第二節<霧満つる旅路>

 闇。


 昼と対を成す、陰としての闇。万物を育み、慈しむように護る闇。疲れを癒し、安らかで温もりに満ちた眠りをもたらす、安息の闇。


 しかし闇は同時に邪を孕む。


 目を閉じれば訪れる闇にも、確かに邪は存在する。


 吹上御所で将門の憑依した柿崎の放った邪霊は、ルスティアラの意識から深層領域までを一気に浸食していた。自己防衛のために、忘我という領域に封じていた記憶を掘り起こし、それをルスティアラの意識にまで持ち上げ、繰り返し見せつけていた。


 逃れられぬ記憶の牢獄の中でルスティアラの精神は極度に疲弊し、そしてまた己を護るための壁すらなく、萎縮するより他はなかった。闇の中、あらゆる負の記憶を映し出すスクリーンとなっていた闇からの圧迫が消え、ふと膝を抱えていたルスティアラの意識は、顔を上げた。


 目の前の闇から感じられるのは、小川のせせらぎ。


 見えないが、川は確かにそこにあるような存在感を持っていた。微かに湿った空気と涼しい風、そしてなにより辺りに満ち溢れている清涼感は、ルスティアラの精神を優しく慰撫してくれた。


 小さく固まっていたルスティアラは、起き上がり、二本の足で立ち、そして音を頼りに歩き出した。

 闇の中ではあったが、既に先刻までのような恐怖は何処にもなかった。






 岩の上に横たわっていたルスティアラの躰が、一度大きくびくりと痙攣した。


 躰に緊張が走り、そして恐る恐る瞼が押し上げられる。


 はっと気づくルスティアラは、最初視界に入った映像が何処のものなのか理解できず、混乱を来たしているようであった。


 慌てて上半身を起こすと、胸にかけられていた紺色のスーツの上着が膝元に落ちる。男物のそれを手にとって初めて、ルスティアラの表情が落ち着いたようであった。


 ゆっくりと首を回すと、ちょうど左脇に迫り出した岩にもたれるようにして、北斗が座っていた。白いシャツにネクタイを締めた格好のまま、北斗は意識を取り戻したルスティアラをじっと無表情な顔で見つめていた。


 北斗を見、そしてさらに周囲を見渡してから、ルスティアラは唇を動かし、問いを発した。


「ここは何処なの?」


「それは私にも分かりません」


 偽りのない、北斗の言葉。元より正しい答えなど期待してはいなかったルスティアラは、それでもはっきりと分かるほどに肩を落とす。


 しかしそれでも、近くに人間がいるという現実は、ルスティアラにとって救いであったことは間違いない。もしたった一人でこのような異界に放り出されてなどいたら、精神は容易に均衡を崩し、恐慌状態をきたしていたことだろう。


 北斗がいたことと、あの闇の中での小川のイメージが、ルスティアラの精神を救っていたのだ。


 だが、どうして唐突に闇が抗い難い気配を消したのか。躰を支えるために手をつき、何気なく周囲に視線を泳がせていたルスティアラの霊的視野に、それは飛び込んできた。


 夢の中で感じた、あの心地よいせせらぎの気配と同じものが、ゆっくりとではあるが、二人の周囲を巡っているではないか。流派こそ違えど、それが魔族を退ける結界であることは、ルスティアラにもすぐに判別できた。


 そこに流れているのは、およそ邪気を纏ったデヴィルなどの侵入を阻む魔法陣にも匹敵する気が満ちている。


「これは、あなたが張った結界なの?」


「墨曜道で、九字結界というものです」


 北斗の口からはそれ以上の説明はなされなかったが、実際は通常の九字にさらに呪力を上乗せした呪法が展開されていた。


 相違点は、九字を切る際の一字一字に、それぞれの対応する本尊を観想し、その加護をもたらしたのである。如意輪観音菩薩、聖観音菩薩、愛染明王などの仏教の諸仏を観想において召喚することにより、さらに強化された結界を張ったのであった。


 陣形を用いず、ここまでの聖域を作り出せる手腕に胸中で舌を巻きながら、ルスティアラはやはり一つの疑問を拭えないでいた。


 眼前にいるのは、日本の呪術師だ。となれば、日本の霊的破壊を狙った自分は敵であるはずなのに。


 どうして気を失っている間の自分を殺さなかったのか。いや、知らぬうちに何かの呪術を施されているのかもしれない。


 疑念が渦を巻く中、北斗はおもむろに立ち上がり、そしてあまりにも無防備な背を見せつつ、周囲の様子を伺っていた。


「体力が戻ったら出発しましょう。いつまでも一箇所に留まるのは危険ですから」


「どうして?」


 北斗は、その問いの真意にも気づいているかのようであった。しかし必要以上には言葉を発することなく、ルスティアラに問う。


「それは、どういう意味ですか?」


「憎くはないの? あなたの母国を破滅に追いやった敵を、殺してやろうとは思わなかったの!?」


「……憎いですよ……憎くないわけがないでしょう?」


 いつもは温和な北斗の相貌が、明らかに変化していた。感情を宿さぬ一対の瞳が、冷徹なまでに研ぎ澄まされたままルスティアラを見据える。


「あなたの魂に大土公祭文を焼きつけ、五郎王子の呪詛をあなたの眉間に刻みたいほどにね」


 まるでその言葉が本意であることを示すかのように、北斗は懐から白木の鞘を引き、ぎらりとした鉄の光を見せ付ける。負の感情が一時、理性という拘束を失って暴れ出すと同時に、北斗の呪力が禍々しい光彩を放つかに見えた。


 しかし、北斗は我を忘れていたのではなかった。


 ぱちんと音をさせて小刀を元に戻し、ゆっくりと瞳を閉じた。


「しかし、呪いは呪いを育みます。そんなことをしても、一度動き出した事態が好転するとも思えないですしね」


 墨曜道においては、その理論は文字通り実践されることになる。


 相手からの呪詛を返すには、同じ呪詛を返すだけでは終わらない。すなわち相手から放たれた式神を再び支配し、より強い呪力によって縛り、相手へと返すことになるのだから。


 そのようにして、徐々に加算されていく呪力合戦は、一端幕が上がればきりがない消耗戦へと発展する。そしてついには先に呪力の限界を迎えた術師が、臨界点を優に超えるだけの強大な呪力を魂に受け、倒れることになるだろう。


「殺さないのなら……私にも何か手伝わせてくれないかしら」


 この世界において、呪術の力はおそらく、現実世界以上に有利に働くはずだ。まだこの場所を解明したわけではないが、大気に満ちる瘴気の濃度から、その異常事態に幾許かの仮説は立つ。


 だが、それに対する北斗の返答は、先にも増して冷たかった。


「あなたが、ですか?」


「そうよ……他に誰もいないじゃない?」


「何を言うかと思えば」


 肩を竦め、北斗はくるりと踵を返す。


「殺せと叫んだかと思えば、次は仲間になりたいと口にする……そんな言葉をどうやって信じろというのです?」


 返す言葉の見つからぬルスティアラに、北斗は容赦のない追い討ちをかける。


「あなたたちはどうだか知りませんが、私の知る「仲間」という言葉の意味を信ずるならば、そのように軽々しく使える言葉ではないはずです。私の記憶違いでなければ、ですが」


 岩に指をかけ、ぐっと躰を引き上げる。


 元より満足な道など期待すべくもなく、少しでも通行にましな経路を辿るしかなかった。


 一人立ちすくむルスティアラに振り返ることもせず、北斗は壁のように盛り上がる岩を越えんと革靴を踏みしめる。


 残されるルスティアラが生き残るためには、他に選択の余地はなかった。意を決し、北斗のあとを追おうとするルスティアラ。




 こうして、奇妙な取り合わせの二人は、広大な荒涼とした地を彷徨うこととなったのであった。

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