第三十一章第一節<死海の畔>
どこからか、水音が聞こえてくる。一定の間隔を置いて、響いてくる音は、波の音に似ていた。
気がつけば、北斗は一人で倒れていた。
仲間は何処にもいなかった。否、そうした波長すら感じられなかった。
北斗は身を起こし、ゆっくりと混乱した思考の糸を手繰りはじめる。
確か、私は皇城内でユリシーズと誠十朗、二人の呪術師と戦っていたはずだ。同じ流派でありながら、あれまで暗い気を操る誠十朗の大陸呪術の前に、自分の術は通用しなかった。
理由を問う間もなく、意識は途切れたのだ。
そして、意識快復からやや間を置いて、胸に鋭い痛みが走った。スーツの上から触れると、たまらずにうめき声が漏れるほどに痛みが増す。
肋骨が折れているか、罅が入っているか。どちらにせよ、骨に何かの異常があることは間違いない。呼吸するだけでは動けぬほどの痛みを感じないということは、大きな破損や肺の損傷はないということだ。
念のため、北斗はスーツを脱ぎ、シャツの前を開いて自分の胸を確かめる。不気味な色をした痣が大きく広がってはいるものの、外傷はない。
そのことに北斗は大きく安堵のため息をついた。
傷があるということは、多少の程度はあれ出血を伴う。日本の宗教観においては、血の穢れは最大限に忌み嫌われるものとなり、魔を呼び、鬼を生む。気絶をしているうちに血を流したりしていたのであれば、すぐ近くまで魔が忍び寄っている可能性もあったのだ。
あとは、この痛みをどうにかすれば、支障はないか。
そう考えた北斗は、スーツの上着のポケットから呪符を取り出す。
取り出された符は四枚。記されているものは全て同じ、頭部に龍を宿した男の絵図があった。
北斗はその四枚を、自分を中心として一定の間隔に並べた。正確な方角を記すとすれば、それらは北北東、東南東、南南西、西北西。
すうと息を吸い、北斗は観想のために瞳を閉じる。
「汝、歳破神、丑と辰と未と戌にありや……四季五行の老衰の宮におわせられる汝、万軍不敗の汝、我、汝をして打ち果たし、凌駕せしめん者なり」
呪力を符に放つと同時に、符は一斉に縦に裂けた。
歳破神といえば、稀代の墨曜道師、阿倍晴明の著書、
そして北斗が置いた方角は、この歳破神が最も衰退し、弱体化する方角を表す。すなわち、戦闘を司る神を符に見立て、それを打ち破ることで、北斗は必勝の呪を己に施したのだ。
ゆっくりと朽ちて塵となる呪符を一瞥すると、北斗は立ち上がってスーツに袖を通す。胸の痛みは、嘘のように治まっていた。
歩き出した北斗は、程なく海辺と思しき場所にたどり着いた。
思しき、というのは、それが海のようでもあり、また似つかわしくない光景であったためである。
漆黒の冷たい水が一定の間隔で、浜辺に打ち寄せている。ずっと聞こえてきていた音の源は、ここであったのだ。
その「海」は、北斗が考えていたよりもずっと近くにあった。距離感がつかめなかったのは、潮騒の香りが全くといってよいほどにしなかったせいだ。頭のどこかで、海と独特の香りを結び付けていたせいであろう、感覚が微妙な狂いを見せていたのだ。
それ自体は何等北斗が知る海の光景とは変わらないのだが。
漂着しているのは、無数の死体であった。水が黒いのは、数多の屍骸の宿す陰気のせいか、それとも呪詛によるものか。五体満足なものなど、どれ一つとしてなかった。
もがれた腕、足、首、そして切り裂かれた腹、胸。その合間を縫うようにして歩きながら、北斗は視線を一つの意志によって彷徨わせていた。
この、呪われた浜辺に足を踏み入れた理由はただ一つ。同じ呪術師の波長を感じたせいであった。
無残な屍骸と成り果てているのであれば、波長を放つことはない。いや、だが北斗の頭の中ではその可能性も捨て切れないでいた。殺されてから時間が短ければ、生前の残留思念が波長と似た感覚を呼び起こすこともある。果たして自分を呼ぶのは、敵か、味方か。
味方ならば、無事を祈らずにはいられぬ。
しかしもし、それが敵であれば。そのとき、私はどのような行動に出るだろうか。
無防備な呪術師ほど防禦の薄いものはない。力ある意志あればこそ、彼らは秘術を扱えるのだ。
迷いを振り払うかのように、北斗は探す。
生者か、死者か。その答えは、ほどなく彼の前に姿を現した。
浜辺を百メートルほど歩いた頃であろうか。
彼の足が、大きくうねるブロンドを踏みつけた。
視線が像を結び、ブロンドの行方を追う首のない男の死体の下から、女の腕が伸びていた。
歩み寄り、屍骸を力任せに投じると、その下からは異国の女が気を失ったまま倒れていた。身に着けている長衣から、魔術師であることは一目で知れた。
北斗の逡巡する間に、女魔術師は一度眉間に皺を寄せ、吐息を漏らした。
生きている。ひどく弱ってはいるが、まだ息はある。
それでも北斗は迷いあぐねた挙句、一つの結論に達した。
腕を掴み、体を起こさせ、細い肢体を背負い、北斗は海辺をあとにした。
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