第三十章第二節<氷結地獄コキュトス>

 異界という名が、もっとも相応しい地であった。


 天空は苦悶する人の波か、それとも底無しの海底に船を飲み込む大渦かと思しきほどの雲海が、複雑な気流によってうねっている。


 その向こうに広がっているはずの天蓋は、刹那のときも姿を現すことはない。そればかりか、天空は見事なまでに紫色の陰影によって染め上げられていた。


 絶え間なく轟く雷鳴は、いつ果てるとも知らぬ永劫の嵐の只中に封じ込まれているかのごとき錯覚を起こさせる。大気は淀み、息を吸い込むだけで喉の奥に澱がへばりつくような不快感を催させる。


 周囲には血臭と腐臭とが満ち、何処からともなく声帯を破壊せんばかりの絶叫が耳を打つ。


 ――――地獄。





 その地において、一人の男が奇怪な岩の上から見下ろしていた。


 足を組み、膝の上に腕を乗せ、あたかも自宅のリビングソファにでも身を横たえてでもいるかのような所作。白いスーツに実を包んだその男は、シャトー・ムートン・ロートシルト。凄まじき呪力と使役霊の数々を操る、異能の呪術師の青年であった。


 シャトーの眼下には、小袖姿の雅が気を失ったまま倒れていた。


 愛用の銃は指から離れ、無意識のうちにか伸ばした右腕の指先数センチのところに転がっている。


 おそらく、それが雅の持つ唯一の、そして最強の護身具なのだろうが。シャトーであれば、ここから指一つ動かすことなく、あの銃を打ち砕くことなど造作もないことであろう。


 そして、雅は身を護る術の一切を失うことになる。


 だが、それで面白くはない。そんなことをすれば、雅がこの地で命をつなぐことが出来る確率は恐ろしく低くなる。


 それではいけない。自分に残された手段の全てを駆使して、岩に噛り付いてでも生き抜くさまが見られなくなるからだ。


 力無き者が、生への執着を体現する様子を見せておくれ。


 歪んだ思考を抱き、動かぬ雅を睥睨していたシャトーは、やがてすっくと立ち上がった。


 革靴の下で岩の一部が崩れ、小さな石の破片となってからからと落下する。


 その時になって初めて、シャトーは視線を上に向けた。


 シャトーがいるその場所は、無数に屹立した柔突起のような岩塊のうちの一つであった。地表から突出するように盛り上がった岩の頂上からは、明らかに自然の造形とは思えぬような形状がさらに続いている。


 シャトーが腰を下ろしていたように、人一人が座れるほどの段差を残しつつ、さらに細くなった岩が柱のように伸び上がる。


 さらに上方では、槍のようになった岩に交差する形で、真横に伸びる岩へと変形している。


 その形は、容易に十字架を思わせる。


 似たような形状の岩塊が、見渡す限り無数に続いているではないか。


 その光景から、シャトーは知識の海の中から一つの名称を拾い出した。


 地獄の深遠第九圏コキュトス、魔王を取り巻く同心円の階層の一つ、ジュデッカ。


 神学的見地における裏切り者の代名詞、イスカリオテのユダに象徴されるこの地獄階層の光景には、林立する十字架はもっとも相応しいように思えたからだ。


 それでは、ここは本当に地獄なのか。


 凄まじい霊圧を感じる場所が、普通の現実世界に存在するはずはない。


 事実、これまでの経験から、現実世界とは思えぬ事象がいくつも、ここでは見受けられた。意識を取り戻してから、かなりの時間を歩いており、まだ人間以外の何者かに遭遇することはなかったのだが。


 混濁した意識が見ている悪夢でも、幻視をしているわけでもなさそうだ。


 どうやら、肉体ごとこの不可解な世界に移動してしまっているらしい。


 原因と対策を見出すには、まだ時間はかかる。





 シャトーはそこまで考え、再び視線を落とす。


 雅は依然として気絶したままだ。


 普通の生活を送っていれば、このような目に逢うこともなかろうに。いや、それでは魔都と化した帝都にて命をつなぐ事は至難の業か。


 ならば、生きて見せろ。


 俺は、もう少しこの貴重な体験を満喫することにしよう。


 極東の国で出会った、類稀な魔道災禍を、この瞳に刻み付けるとしよう。


 シャトーは瞳を閉じ、何かを念じた。


 そして、上着を無造作に脱ぎ、腕にかける。


 呪術師にしては整った体躯を包む白いシャツの背は、まるで刃物で切りつけられたかと思えるような裂け目が二つ、縦に並んであった。


 いや、しかしそれは怪我をしているのではない。その証拠に、シャトーの念に応じて出現しているのか、めきめきと背中が盛り上がり、シャツの裂け目から黒い何かが飛び出した。


 一対の腕のようにそれは空を掻き、うねり、そして広がった。


 その動きに、抜け落ちた羽毛が、まるで空に巻かれた黒死病の菌塊のように散る。


 シャトーの背から現れたのは、一対の黒い翼であったのだ。


 それを一度振るうと、あたかも凶鳥のようにシャトーの躰がふわりと空中に浮き上がる。


 ジュデッカの地に来る、東西の呪術師たちの戦いは、これから始まろうとしている。


 そして、もしかすれば他の地獄階層にも散っているであろう、同胞と好敵手。


「僕の霊的許容量はまだ半分も満たされてはいない……最後の領域は、写本を取り込むことは決まってるんだけどね」


 シャトーは雅を見下ろしつつ呟くと、翼を広げて何処へかと飛び去っていった。








                              第三部   完

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