第三十章第一節<秋津島霊的守護法陣>

 国学者、賀茂真淵。


 農政学者、佐藤信淵。


 この二人の案はいずれも都を東に置けというものであった。


 大久保利通の上奏した大阪遷都案は却下され、東享は都となる。それは日本の歴史の中における、一つの揺ぎ無い事象である。





 だが、東享遷都の事実は何であったのか。


 前島密、大木喬任、江藤新平らの提言した東享遷都案を統合すると、一つの結論が見えてくる。


 関東奥羽を王政をもって統治するには、東享に都を置け。東方は王政に屈せぬ地であり、それ故東享遷都は至上命題である。


 鑟川慶喜に東方鎮定を命じ、気勢を削げ。都により、皇威を高めて東夷を鎮圧せよ。


 それらの目的は全て、瑿鬥が天下統一に相応しい地であるという理由ではなかったのだ。


 東夷の鎮圧と、関東以北の地の鎮定という事実が浮かび上がってくるではないか。


 西の王都が武蔵野を鎮圧するべく、牽制すべく。つまりあの広大な敷地を有する皇城は、ひとえに関東の地を支配せんと武蔵野に打ち込まれた楔であったのだ。


 しかし、ここで一つの事実が、歴史の中から甦らんとすることになる。


 大木、江藤の二人が唱えていたのは、実は東享遷都だけではなかったのである。


 思えば、皇威を強めるために東享に都を移転させることはできても、そのような野蛮な地に日本の霊的継承者である天皇をも移り住まわせることを、快しとするだろうか。


 そう、そして二人の理論は、佐藤信淵の理論に基づいているといわれているのだ。


 佐藤は単に東の都を日本の中心にしろと主張したわけではない。著書「宇宙混合秘策」において、日本を八つに分割し、大阪を西享、江戸を東享とすることを主張していたのである。


 つまり、大木と江藤らもまた、東西二都論を唱えている者らであったのだ。




 その理論は、ではどうなったのか。


 明璽天皇は二人の意見を取り入れた上で、東享に御身を移すことを決定した。


 そして、東享遷都という公的な発表を、うやむやのままに封じているのである。


 天皇は皇城へと入ったが、当初の予定では理論どおり、東西の二つの都を天皇が行き来するということになっていたのである。


 しかし実際のところ、交通や所要時間などの関係で、頻繁な移動が不可能であるということになり、天皇は東享から動かずにいることになるのだが。


 遷都発表がなされていないということは、実は京都御所こそが天皇の本当の居城であるということになってしまうのだ。


 精神的基盤としての京都御所と、物質的基盤としての皇城。今や、人々は東享こそが日本の中心であることに疑いを持つ者は少ない。対外的にも、公的にも、それは暗黙の了解のごとくに謳われてはいるものの、それを証明する正式な手続きはいまだ成されぬまま。


 これを「見立て」の呪術と言わずして何といおうか。


 日本を守護する呪術師たちは、このようにした大々的な見立ての呪術を執り行うことにより、まず異国の文化の流入先を東享、そして横浜と定める。そして鎖国の解除により、何か問題が生じた時には、日本の呪的中枢をいつでも西に移すことにより、鉄壁の護りを築くことができるよう、虎視眈々と策を練っていたのであった。


 西洋術師による、帝都の堕天奈落もまた、その範疇へと含まれる。


 つまり、日本の呪術師らは、そうした外国からの霊的侵略をも十分に予想の中に組み込んでいたのであった。





 では、日本の呪術師たちは、どのようにしてそうした霊的侵略因子と対決姿勢を取ろうとしていたのだろうか。


 現に、各霊能者を抱える宗教団体は、明璽維新前後の混乱の最中において、満足な対応策が取れていないというのが現状であった。それでも比叡山、高野山のそれぞれは、沙嶺、宝慈、圭太郎らを帝都に派遣することが出来ていたが、それ以外は一部の神祇調師が宮中から支援できていたにとどまっている。


 現世的な救済を求め、派遣を行った曼華経勢力とは異なり、宮中の神祇調師らはじっと機を伺っていたのだ。


 そもそもが、東国に対しては鎮圧と言う姿勢を取っていた彼らは、すぐに手を差し伸べるようなことはしなかった。


 彼らにとって、最重要なのは天皇家の血族。すなわち、彼らは他の呪術師らの敷いた霊脈を見事に利用して見せたのだ。


「これより、伊勢神宮と和歌浦東照宮において霊性装填のための祈祷を開始します」


 京都御所で、男―すなわち西国の天皇はそう語った。


 それの意味を知るには、まず日本地図を眺める必要があるだろう。そして、東享浅草周辺の地名と、和歌浦付近の地名が滑稽なほどによく似ているということがわかるだろう。


 無論、これは単なる偶然ではない。紀伊という土地は、言を費やすまでもなく東享の結界守護を担う熊野神社の中枢がある。


 二つの土地を同じ地名という要素で結び、神気の流れを霊的に接続する。


 皇城の周辺を、そうした遠隔地からの神気で護り、清める。この構造はおそらく、武蔵野の地に最初に呪術結界を結んだ霊能者、熊野修験者らであったことだろう。


 そうした地に社を立て、神霊を分割し、祭り、己の手の届く範囲において支配する。そうしておいて、このような霊的災禍が発現した場合は、こちらから神気を装填するのである。対応する寺社仏閣らに隅々まで行き渡る神気は、堕天奈落をしていながらも依然として霊的能力の残滓を失わぬ神霊の再活性化を促す。


 つまり、西洋術師がいかに帝都を霊的に破壊しようとも、完璧な破壊を目指すならば近畿の霊場をも同時に破壊する必要があったのだ。


 それが同時に行わなければ、すぐさま一方の側からの神気装填において、結界は再び結ばれる。


 だがここにおいて、現代を生きる呪術師らはさらに恐ろしい仕掛けを施していた。


 天皇の言葉に含まれている、「東照宮」という名。これは紛れもなく鑟川家の霊地を意味するものであったが、鑟川幕府失墜後、呪術師らは西洋の屍術師ネクロマンサーもかくやというべき呪法を展開したのだ。


 深き眠りについていた、鑟川の霊廟に眠る霊魂を呼び起こし、それをもって武蔵野の守護霊という束縛を成さしめたのだ。かつての己の支配する地が汚されていることは、公家に支配権を譲り渡す以上に苦痛であるに違いないと判断した呪術師は、鑟川の霊を使役することで武蔵野を護る手段に加えたのである。


 浅草寺において、沙嶺が感じ取った神気の残滓とは、このようにして熊野修験者が接続した霊的ネットワークを通じて僅かに漏れ滴った、紀伊の霊気の滓であったのだ。


 これにより、日本という地を完璧な破壊に追い込むには、さらに全国に広がる東照宮をいっせいに破壊する必要性が生まれたのである。


 こうなってはおそらく周到な計画を立てていたとしても、成功する確率は恐ろしく低くなることは間違いない。





 東享全市、堕天奈落から二十六時間後。


 紀伊の全社寺からの神気装填により、結界は再び力を得る。


 奈落発現の中心地にいた皇城内の人間を除く全地域は、こうして霊的救済を受けることとなったのである。

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