第二十九章第二節<堕天奈落>

 千年の時を経て、吹上御所に降臨した平将門。


 がちがちと顎を動かし、歯を鳴らしながら、生首が哂う。


 生首から感じられる怨念の力も強大であったが、それを取り巻く経文にも凄まじい霊力が宿っている。詳しく見れば、経文にて首の知覚を封じ、鎖で縛った上に、さらに鉄杭を幾本も頭部に打ち込んであるではないか。


 かぱりと顎が開いた瞬間を見計らい、柿崎は鶏頭の刀を自らの首に向かって投じた。


 それは狙い通りに口腔から刃を迎え、そして後頭部に至るまで貫通させる。


 刀は物質的な破壊ではなく、将門自身の新鮮な霊力を生首に与える役割を担っていた。


 長き月日の間、自らの生み出す怨念は徐々に失われ、経文による封印に屈するしか道はなかった。


 しかし、それは先刻までのこと。将門の強烈な思念が物質化したその刀を取り込むことで、生首は本来の念の力を一時的にではあれ、快復することができていた。


 だがしかし、ここで将門に首を与えてはならぬ。


 そのようなことをすれば、帝都の霊的防衛は最悪の事態を迎えることになる。


「明王招請……ッ」


「ならぬ」


 印を結び、結護法を唱えようとする沙嶺の指は、不可視の力で弾かれる。


 首が鳴動し、打ち込まれ、錆びついた杭の一つが弾き飛ばされる。


 続いて二本目、三本目。次々に解放されていく将門の怨念の前に、今の生首を縛る法力はあまりに脆弱であった。


 もともと、失われ行く怨念を考慮に入れ、それに応じて必要最低限の封印を施すことで半永久的に地霊の力を押さえ込んできた結界は、再びその裡に取り込んだ怨念が爆発的な増大を見せるなど、考えもしなかったのだろう。


 天海が予想だにしなかった事態が、今起ころうとしている。





 そして同じ時刻。


 遥か北、栃木の羽黒神社が、アリシアの黒き血によって、破壊を受けた。


 浅草寺と寛永寺による青龍、江戸湊の朱雀、天沼八幡の白虎、そして羽黒神社の玄武。


 江戸を囲む四神結界は、全てが破壊された。






 その時、二人は大地がぐんと沈む錯覚に捉えられた。


 果たしてそれは錯覚か、現実か。


 目に見える光景にはなんら変わりはない。


 しかし深い森の中、周囲と比較して何が自分たちの身に起きているのか、それを知ることが出来ぬ。まるで大地がぶよぶよとした海月のようなものへと変質し、底なしの沼のようにずぶずぶと躰が沈んでいくような。


 全ての現実が、一瞬にして不確かなものへと変わっているような。


 どちらにせよ、何かが起きたのだ。


「奈落か……」


 柿崎は喜悦を押し殺したような低く震える声で、そう呟いた。


「……奈落?」


「たった今、帝都を囲む忌々しき最後の結界が破られた……無防備な帝都は奈落へと転ずる……止める手立ては、もうない」


 現世と結びつける鎖は既に絶たれ、そして流入する負の力を阻む壁も穿たれた。


 柿崎の言葉から、二人は最後の望みであった北の玄武もまた、破壊されたことを確信した。


 かつて天海僧正によって完成された、江戸の結界は悉くが破壊されてしまったのだ。


 霊的位相は最悪なものとなり、この地は魔界と化すであろう。


 がくりと膝をつく沙嶺。


 絶望のあまり、雨粒に顔を打たせるままに仰ぐ宝慈。


 沙嶺の手から錫は落ち、濡れた土の上に投げ出された。


 けたけたと笑い狂う生首から、最後の鉄杭が弾かれる。


 一気に拡散してくる狂乱の怨念。


 それに呼応し、幾重にも巻かれていた経文が自らほどけ、そしてぐるりと生首を囲んだ。


 経文書簡による紙の結界。それが次の瞬間には、無数の断絶が生じていた。


 生首の邪念が経文を引き裂いたのか。将門の念は念仏をも凌駕するほどに強かったのだろうか。






 否、そうではなかった。


 無数の紙片となった経文は、まるでそれぞれが頁を裏返すかのように回転し、新たに変化し、結界を再び結ぶ。


 そして今や、経文の形状は何処にもなかった。


 古びた紙に綴られた横文字と紋様が変色しかかったインクで描かれている。


 それは写本であった。


 形状を変化させ、新たに膨れ上がる力を押さえつけ、将門の力の復活を阻もうとしているのだ。


 だが写本のことを、沙嶺も宝慈も知る由もない。ばちばちと暴れ狂う雷光の結界の中に封じられた己の首に、柿崎は大地を震撼させるほどの呪詛を吐いた。


「おのれェ……まだ我の身を阻むか……おのれ恨めしや妙見菩薩ッ!」


 呪として定義される以前の、根源的な思念が奔流となって渦を巻く。


「十一面観音垂迹、五星にして北辰三天子、千九曜の旗をもって名号と共に我を迎えよとは偽りか……ッ!」


 



<戦乱を>


 



 奇怪な声がした。


 しわがれた男の声。


 だがそれは人の喉から放たれたものとは、歪に異なっていた。


 


<戦乱を、血の饗宴を。それこそが我の望み、我が使命なり>


 


 かっと神雷が閃き、続いて雷鳴が轟く。


 写本が本来の姿を取り戻したことにより、皇城内における魔の総量が爆発的に膨れ上がる。


 結果、東享の奈落化は一気呵成に進行し、大きく空間が撓む。


 堕天奈落フォウル・ダウン


 人界と魔界、霊界、本来ならば断絶されるべき世界の融合。


 ほぼ全ての宗教観念における禁忌が今、東享全市を包み込んだ。

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