第二十八章第一節<記憶の中の痛み>

 正光が姿を消してから、綾瀬は童子斬の者たちの傷を調べて回った。


 不幸中の幸いとでもいうべきだろうか、骨折、打撲などの傷を負っていながらも、誰一人として命を落とした者はなかった。


 強い怨みと哀しみの底にあっても、宗盛は無差別の死を願ってなどいなかったということなのだろうか。


 刀を落とし、膝をつき、蹲ったまま微動だにせぬ。それはまるで、遠目からでは巨大な巌のようでもあった。


 全員の生存を確認した綾瀬は、一人静かに蹲った宗盛にゆっくりと歩み寄っていった。


 既に取り巻く邪念は消え、ただ弱々しく左の青い石が光っているのみであった。たくましい躰のあちこちには無数に小さな傷があり、そこから血が流れ、伝い、躰を濡らしている。


 しばらくの間、綾瀬は宗盛の横に立ち尽くしたまま何も言えないでいた。


 ここで慰めの言葉でもかけてやれれば、楽になるだろうか。


 いや、それで楽になるのは「自分」だ。


 そう感じた綾瀬は、さらに寄ると筋肉が大樹の根のように絡み合う、宗盛のがっしりとした肩に触れた。


 いつしか、天空からぽつぽつと落ちてくる水滴は見る間に大きさと激しさを増し、夕立のような豪雨となった。


「そろそろ行くぜ……目は覚めたかよ」


 宗盛の過去についての言葉は、薄っぺらい同情に過ぎない。


 妻を娶るなど俺には関係のない話だ。これからも、俺は伴侶を従えて生きていこうとは思わぬ。


 微かな頭痛と共に、これまで幾度も胸のうちを抉ってきた記憶が一瞬、蘇る。


 血を塗ったかと思えるほどに赤く艶やかな唇が、淫らな笑みを象る。






「変わってるな」


 押し殺した声で、宗盛が言葉を返す。


 既に太刀は腰の鞘に納刀している。だが<胡蝶>との交信を果たした綾瀬には、不思議と自分が携えているものが普通の武器ではないことが手に取るように分かっている。


 自分の知覚能力も数段上昇しているように感じた。


 宗盛から邪気が去っているということも、もしかしたら太刀によって解放された感覚なのかもしれぬ。


 太刀というものについて、綾瀬は詳しくは知らなかった。この刀が通常の刀と違うということに気づいたのは、警官としてはじめて人外の妖と対峙したとき。


 実体を固定することもできぬ霊であったが、太刀から流れ出す青く重い霧のような力の流れに、刀を振るう間もなく霊は四散した。居並ぶ警官どもですら驚きを隠せないその状況で、混乱しなかったのは、何処かでこの刀が何か違うということを知っていたからか。


 抜きん出た剱術とその太刀のせいで、綾瀬は特戦警に部署を移らされたのだ。


 それからというもの、綾瀬はこの太刀を振るって数多の霊、妖を斬った。その都度抜刀したときの、鞘の内側から溢れ出るとろりとした青い霊気は、綾瀬を護ってくれていた。


 俺の刀は喋る刀なのか。納得している自分が滑稽に思えるほどに、綾瀬はすんなりと事実を受け入れていた。


「何がだよ?」


「俺の過去に、何も触れない人間は初めてだ」


「なんだよ……慰めてほしかったのか?」


 綾瀬の軽口に、宗盛は少しだけ肩を揺らして見せた。この男なりに、笑ってくれているのだろう。


「てめえの傷はてめえで一生背負って生きろ。それだから、『痛い』ってのは自分しか分からない感覚なんだろうが」


 むくりと宗盛が顔を起こす。


「傷が痛くねえなら、誰だって傷を治そうとなんてしねえよ。痛かったり苦しかったりするから、それを乗り越えようって歯を食い縛るんだろうが」


 水を吸って重くなった着物が肌にぴったりと貼りつくのを振り払うように、綾瀬は宗盛の横を通り過ぎようとする。


「写本」


「……あ?」


 宗盛の呟きを聞き取った綾瀬だったが、その言葉の意味が分からず、足を止めた。


「写本を奪うため、と言っていた……この戦い、写本を奪い、日本から力を奪うと……」


「なんだよ、その写本ってのは」


 その問いに対しては、宗盛は首を横に振った。


「恩に切るぜ」


 綾瀬は短く言い残すと、宗盛の前から一直線に、皇城に向けて駆け出していた。背中で宗盛が何かを伝えようと口を動かしていたが、その声は雨音にかき消され、綾瀬の耳には届かなかった。


 




 板張りの廊下が、ぎしりと軋んだ。


 ぱた、ぱた、ぱたと水が板を打つ音が聞こえる。


 再び床が軋む。


 影が廊下を移動していた。


 点在する灯火に照らされ、それは一瞬姿を現した。


 鴉のように黒い長衣を纏っているのはエフィリム。ただ両手の肘の辺りまでがぐっしょりと濡れ、そこから滴る水滴が床板に小さく丸い跡を残す。


 いや、それは水滴などではなかった。


 黒い生地をぐっしょりと濡らしているのは、粘度を増した血液であった。


 廊下は十数メートル先で、右側の部屋に繋がっていた。


 御簾が垂れ、炎が揺れているのがここからでも見える。


 だが、廊下には霊気が満ちていた。


 エフィリムの進路を阻むものではない。しかしそこには何かしらの術が施されているのだ。


「そこにおられるのでしょう……天皇陛下?」


 エフィリムの力の流れを受け、御簾が砕けた。

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