間章ⅩⅩⅦ<妖、再戦>
符から斉天大聖の力を呼び出し、北斗に強烈な一撃をくわえた誠十朗は、しかしいまだ戦闘態勢を解こうとはせぬ。
帽子の下に輝く瞳には深い慟哭と怨みの念が渦を巻いている。
宙を舞う北斗は、完全に無防備な状態にあった。その隙に、さらなる攻撃を加えようと符を指に挟んで引き出そうとしたときであった。
「動くな」
女の声が夜の空気を震わせた。
気迫もさることながら、声に乗せられた強い言霊が神経に介入し、誠十朗の腕の動きがびくりと静止する。
ユリシーズもまた、流派こそ違えどその不思議な強制力にエノクの術を唱えられずにいる。
二人の眼前で、仰向けに仰け反った北斗の躰が空中で誰かに受け止められたかのように、ふわりと優しく揺れ、止まった。
「何奴」
突然に、気配も感じさせずに戦闘に首を突っ込んでくる輩を探ろうと目を凝らす誠十朗の視界に、渦が映った。
気を失っている北斗の下の空間に、確かにねじれている箇所があった。
誠十朗はゆっくりと指に意識をこめ、動かしてみる。
符を挟んだままの人差し指と中指は、何の異常もなく動く。となれば、先ほどの言霊は北斗を救うためだけに放たれたものなのだ。
「あれはなんだ?」
ユリシーズもまた空間の異常を感知しているようであった。
空間の揺らぎを隠れ蓑のようにして利用し、身を覆い、潜むなどということは人に出来得るものではない。事実、ねじれから放たれる気配もまた、濃い瘴気をまとっている。
だがその正体を突き止める必要はなかった。
二人の心の中に響いた誰何を求める声に応えるかのように、北斗の下方から一人の女性が姿を現した。
否、それは女ではあったが人ではなかった。幾重にも重ねられた着物の裾を摺り、腹の前で両手を握り合わせるようにしつつもこちらに強烈な眼力を向けてきている。亀甲地に浮紋の鳳凰をあしらった唐衣を揺らして現れた女は、額には確かに異形を示す二つの突起があった。
鬼姫、舞。
「くくっ……既に皇城を巡る結界は失われていたか?」
妖の眷属がこの地に入り込むことが出来るということは、大海の浮島のようにここだけが唯一の聖域として護られていた状況が打ち砕かれているということ。
すなわち、天皇の守護が限りなく弱体化している状況を指す。
「見縊るでない。斯様な結界、脆弱な妖には越えられずともわらわには紙同然」
きゅぅっと瞳孔が絞られ、縦に長い歪な形となる。
「この男を殺すというなら、わらわが相手となろうぞ」
舞の声に導かれるように、まるで天空を巨大な亀裂が走り抜けたかと思えるほどの、鮮明な雷光があたりを照らした。
いつしか曇天となっていた空から、大粒の雨が落ちてきていた。雨脚は見る間に強くなり、今では対峙する三人の周囲は白く煙るほどの水滴と霧が包み込んでいる。
ばたばたと躰を打つ雨粒を感じつつ、誠十朗は雨音に負けぬ声で舞へと声を放つ。
「どうして、妖の分際で人に肩入れをする?」
遥か昔、人と妖が出会ったとき、最初に恐れを感じたのは人であった。
しかしそれは恐れから畏れへと代わり、また妖は人によって力を得た。
その関係は、後代になるにつれ、歪みを増していくこととなった。つまり、人は妖を恐れつつも、妖を凌駕する力を徐々に身に付け始めていた。
そして今、人は己の世界から妖を駆逐せんとしている。科学という力によって、妖の世界をも奪い、妖の力を解明し、その数倍の効率によって人は己の領域を拡大しつつある。
その世界において、かつてのような妖が畏れられ、崇められることは、稀となった。
「もう、人は我らを振り返ることはないのかも知れぬ」
舞は、まるで幼子に囁くような声で答える。
子守唄のように優しく、哀しげに。
人は、人だけで生きていこうとするだろう。子どもが玩具を捨てるように、人は妖を捨てるだろう。
「しかし、わらわはあの男を見たのだ」
舞は語りつつ、一歩を踏み出す。はじめはそっと、二度目には躊躇いはなく。
「わらわは、あの男に賭けてみたいと思うたのだ」
「それはお前らの望みだろう?」
「無論」
舞の瞳が誠十郎を見、そしてユリシーズを見た。
「これより先、妖が人の前に出ることはなかろうな。だからこそ欲するのだ。この国に仇成さんとする者を、共に退けたという、かけがえのない記憶を」
雅と梓の二人組に光照が合流するころ、西洋術師らも道を交えていた。
風のエノク術師サミュエルと、数多の呪法を身に宿すシャトー。
銃の傷は光照の体術を鈍らせ、呪術への集中を妨げる。
雅の銃弾はシャトーの結界によって阻まれ、梓の神祇調は二人の術式によって無効化されていく。そもそも二人がかりですら敗れなかったシャトーの呪力の前に、誰の攻撃をも届かぬように見えた。
唐突に降り出した強い雨に視界を遮られ、三人は少しずつ疲労していった。
「もういいだろう、サミュエル」
シャトーは淡く微笑む表情を微塵も変えずに、横に立つ青年に振り向いた。
「君は早く中心部に向かうといい。この三人は僕一人で、どうとでもなる」
誰一人、シャトーの挑発に激する者はおらぬ。しかし叩きつける視線には強い敵意と、尽きぬ精神力が込められていた。
銃撃術、神祇調、剱術、召喚術。
そのどれもが通用しない相手など、まさに悪夢。
シャトーの提案にサミュエルが短く頷く。
サミュエルの意識がこちらから逸れる一瞬。それを雅は逃さなかった。
既に装填された銃を構え、サミュエルの頭部に照準を向け、引き金を引く。人の反応速度を超える至近距離からの銃撃に、サミュエルは助かるはずもない。
だが銃を握る腕を挙げた時点で、雅の全身は硬直していた。
「なん……でっ……!」
己の意志では指一本動かすことは出来ぬ。
同様の現象は雅だけでなく、梓と光照にも生じていた。大量の失血によって土気色をした光照は、荒い息をつきながらシャトーを見やる。
「僕の、躰に……何を、入れた……ッ!」
「君には分かるようだね」
シャトーは光照の顔をまじまじと見やり、そして笑った。
「僕の手足となって働いてくれる十二の神霊。それを一つずつ、君たちの躰に憑依させたというわけさ」
見れば、シャトーは毛一筋ほども濡れてはおらぬ。怒涛のごとくに降り注ぐ雨粒は、悉くシャトーを覆う半円形の結界に遮られ、その表面を伝って流れ落ちているではないか。
「逃げてもいいといっているのに、いい加減うんざりしてきたんだけどな、僕も」
余裕を見せ付けるように、シャトーはポケットに両手を入れたまま、顎を上げるようにしてこちらを眺めている。
「諦めの出来ない人間は嫌いなんだ……これが最後通告だよ?」
出し抜けに、雅の躰がぐるんと回転した。
引き金に指をかけたままの腕が向きを変え、銃口が光照のこめかみに押し当てられる。
「さあ、すぐに僕の前から消えると誓え。そうでなければ、仲間は君の手によって命を落とすよ」
指に力が入り、雅がたまらずに悲鳴を上げた。がちがちと歯を鳴らしながら顔を歪める雅の頬を、涙とも雨ともつかぬ液体がとめどなく濡らす。
返事が出来る状況ではない。それを分かっていながら、シャトーがおどけた声を出す。
「黙っているままなら……」
指が内側へと曲がり、引き金が引かれると感じた瞬間。
シャトーの意識の中に滑り込んでくるイメージがあった。
豪雨の中、消えることなく灯される紫の炎。見る間にそれは数を増し、その中心に立つ鎧武者の姿を闇の中に照らし出す。
「娘とはいえ、その魂に武士道ありと、しかと見届けた」
がしゃりと鎧を鳴らし、鬼哭はシャトーを前に刀を抜き放った。
「武士道を嘲笑う者は容赦はせぬ……覚悟はいいか?」
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