第二十七章第二節<敗走の予兆>
「急急招来、関聖帝君ッ!」
投じられた黒い符から、丸太のような腕の幻影が出し抜けに出現した。
大人の男数人を束ねたよりも太いその腕は、指先にしっかりと鉾を握っているではないか。腕が巨大であれば、その操る武器もまた想像を絶するほどのものだ。
差し渡しで十メートルは下らぬと思えるそれが、神雷の速度をもって北斗を狙う。
「
回避しようと身を屈めた北斗の退路を絶たんと、ユリシーズは炎の壁を生み出してくる。
そして、一つだけの方向を開けておくのだ。そうすることによって、北斗の行動は制限されることになる。
事実、北斗はその限定された方向へしか逃げられず、誠十朗の符によって薙ぎ倒され、四散した樹木が降り注ぐ中、ごろごろと土の上を横転しながら間合いを取る。
「無様だな、貴様」
ゆっくりとした足取りで、北斗に歩み寄る誠十朗。今しがた、玉泉山上に祀られた武将、関羽を召喚した符を拾い上げると、頭に載せた鍔広の黒い帽子に手を当てる。
「既に桜田門は破られ、方位戦術は砕かれ、こうして貴様は追い詰められている」
ぎり、と北斗の奥歯が軋る。
「認めろ。貴様では勝つことはできん」
ふらりと立ち上がり、北斗は何処かでひねったのか痛む腕を押さえて、きつとした鋭い視線で誠十朗を睨む。
確かに私の方術の力を、あの男は上回っている。
何が足りなかったというのだ。何が勝っているというのだ。
闇を知らぬだと?
そんなことはないはずだ。
墨曜道を学ぶ者は、誰よりも穢れに強くなくては祓いが出来ぬ。
幾度も、私は生死の境をさまよった経験もある。
闇を知らぬという言葉に、心当たりはない。
それならば、何故、私はあやつに勝てぬのだ。
誠十朗の挑発に対する答えではない。
手刀を取り、無事なほうの左腕を振り上げ。
「朱雀、玄武、白虎、勾陣……ッ!?」
九字を切らんとする詠唱の最中、北斗の視界に誠十朗が迫る。
間合いにして数十メートルという距離を、一瞬にして詰める。
「遅い」
それは既に人に可能な動きではなかった。
残像すら残そうという速度で、ずいと北斗の間合いのさらに内側に侵入してくる。誠十朗は新たな符を取り出し、それを指で北斗の胸に押し当てる。
「急急招来、斉天大聖」
時が止まったかと思える瞬間。
符が当てられているだけなのに、まるで棒術の達人による突きを食らったかのような衝撃が躰を襲う。
肋骨が砕け、凄まじい痛みが走り抜け。
北斗の躰は、紙屑のように宙を待った。
途切れそうになる意識の中で、北斗は、見た。
大きく仰け反っているせいで、背後の様子が見えたのだ。
黒々とした偉観を呈する禁足地、吹上御所。その只中に、禍々しい気配を放つ紫の光の柱が一筋、屹立しているのを。
圧倒的な呪力。絶望的な力の差。
それらを叩きつけられ、それでもなお立ち上がる。
半蔵門の防衛に当たっていた沙嶺と宝慈は、一瞬にして門が破られるのを見た。
侵入者は水のエノク術師、ルスティアラ。
しかし呪力者がもう一人いるということを、彼らはすぐに知った。
禍々しく、暗い気を宿し、そして凄まじい怨念を宿す者。姿を現したのは、でっぷりと太った軍人の男。
柿崎平八郎という名は、既に過去のものとなっていた。
爛々と輝く黒い炎を抱く瞳と、全身から立ち上る瘴気は最早尋常ではなかった。そして、男の繰り出す暗い呪力は、修験の修行を積んだ二人の術をあっさりと弾き返し、結界を破った。
門を破られ、禁足地への侵入を許してしまった二人ではあったが、まだ望みを捨てたわけではない。
「沙嶺」
宝慈の問いかけに、沙嶺は平八郎の育む怨念から注意を背けることなく、言葉に耳を貸す。
「あの気配……覚えがないか?」
柿崎から感じられる気配には、確かに知るものが含まれている。それがなんであるのか、それを読み、記憶の中から探る暇はない。
頷きつつ、沙嶺は印を結んだ。
やや遅れてそれに宝慈が倣い、二人が同時に真言を唱えた。
「
文殊菩薩の力を降ろし、滅罪の結界を張る。
だがそれに対して向けられた柿崎の触手のような怨念は、あっさりと結界を破り、二人を捉えんとさらに蠢く。
触れれば魂魄にまで到達し、精神を食い荒らす禍々しい触手から逃れるために二人はさらに後ろに飛ぶ。
それが、禁足地へとさらに足を踏み入れさせることになると知っていながら。
何かがおかしいのだ。
たとえ生まれつき高い呪力を持って生まれた人間とはいえ、こうまで修行僧を軽くあしらえるだけの力であるはずがない。
では何故、我らの術が敗れるのだ。
一つ一つの術には、それ相応の滅魔の力と功徳が込められている。先ほどの文殊菩薩の結界であれば、六道輪廻を繰り返して業を高めた邪鬼の瘴気すら阻むだけの力があったはずだ。
「南無八幡大菩薩……南無八幡台菩薩……!」
柿崎はゆっくりと二人へと歩みを寄せる。
その後方にルスティアラを従えつつ、歩を止めぬ。
じりじりと圧された二人が、さらに術を重ねるべく印を結んだまま、間合いを取っていたときであった。
空気の中に、唐突にねっとりと絡むほどの血の匂いが漂い始めた。
はっとなる二人の周囲、そして足元から黒い霧のようなものが立ち上り始めていた。
柿崎の唇がにやりとめくれる。
その場所は、かつての宮中の惨劇を生んだ警備官が自害を遂げた場所。禁足地の中心に位置するその開けた場所にまで、二人はいつしか到達していたのだ。
柿崎はぶよぶよとした肉に覆われた腕を伸ばすと、その表面にぼごりと血管が浮き出てくる。
びくびくと痙攣する腕に異変が生じ、血管はまるで肉の内側に巣食う虫のように蠢き、柿崎の掌の皮膚が裂ける。黒い体液を滴らせつつ、掌に体内から浮き上がってきたのは、一つの勾玉であった。
瘴気の結晶とも言えるほどの強く濃縮された気を、勾玉は放っているではないか。
「我が半身よ、今し出でよッ!」
柿崎の声が強烈な言霊を乗せ、二人の鼓膜をしたたかに打ち据えた。
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