間章ⅩⅩⅥ<戦線崩壊>

 夜の闇に銃声が響く。


 二度続けて引き金は絞られ、銃弾は狙い通りに発射。しかしそのどちらも、目標に命中することはなかった。


 雅ほどの腕前の者が、狙いを外すとも思えぬ。


 だが現実に銃弾は大きく逸れ、闇の中へと飲まれていく。


 雅と梓は、南東に位置する桔梗門において、西洋術師の一人に遭遇。


 紺色のスーツを着込んだ、金髪の青年。今までに見たこともない相手であったが、二人は今、確実に押されていた。ポケットに手を入れたまま、青年は悠然と二人に向かって歩いてくる。


「銃火器は僕には通用しないよ。これ以上撃っても、弾丸の無駄遣いだ」


「なんで、当たんない……のよぉッ!」


 雅は諦めずにもう一度、引き金を引き絞る。今度の銃撃は、命中させることが目的ではなかった。


 その意図を理解していた梓は、同時に青年に不審な動きがないか、目を凝らす。


 弾丸の狙いは、確かに青年の眉間であった。


 立ち位置を変えてはいない。いや、青年は一歩たりともその場所から動いてはいないのだ。


 ぐにゃり、と何かが青年の前を横切った。


 それは確実に梓の視力に捉えられていた。同時に弾丸の軌道が、空中で何者かに弾かれたように横に逸れた。複雑な曲線を描きながら、弾丸は波打つように青年の左をすり抜けていく。


「何か、いる……」


「見えたのかい、お嬢さん?」


 梓の霊的視力を以ってしても、それは刹那しか姿を現さない。


「まあ、今のはわざと見えるようにしたんだけどね」


 ずるり、と空間の中で蠢くものがあった。


 節くれだった、触手のような、存在。それは始点も終点もなく、しかし青年を護るように、巻きついているようであった。


「命が惜しいのなら、すぐに逃げることだね。幸い僕は君たちには何の興味もない。逃げたところで、背中から攻撃を仕掛けるような真似はしないからさ」


「見縊ってもらっては困るのだ」


 梓は神折符を取り出すと、それを自分の唇に押し当てる。


「久左母木母 吾大君乃国那禮婆 何処母鬼乃住所天志」


 ふぅっと息を吹き込み、指に符を挟む。


「神代の国に入り込んだ邪教の輩……悔いるがいい」


「面白い、それが神祇調という術だね」


 梓の瞳が、刃を宿したが如き冷徹な光を放つ。


「疾ッ!」


 呼気とともに、神折符は青年に向かって飛来する。それだけでも十分な調伏の神力を持つ術ではあったが、それにさらに梓は言霊を重ねる。


「此の火を天之香具山の磐村の清火と幸ひ給え! 祓ひ給え清め給えと白すことを畏み畏みも白すッ!」


 矢を象った符が炎を吹き、青年に迫る。


 だが符は中空にて静止した。


 我が目を疑う梓の前で、細身の剱を構えて青年の前に立つ、洋装に身を包んだ初老の霊体が姿を現した。符は霊体の剱に貫かれ、ぼろぼろと崩れた。


「貴様、それは……!?」


「君たちの言うところの、式神というものかな? まあ、詳しいことはどうでもいいだろうけどね」


 二人の攻撃をいとも簡単に、そして得体の知れぬ霊術で防ぐ青年。


 この門はこのまま突破されるのか、そう考えたとき。


 


 二人の耳に、はっきりと銃声が聞こえた。


 


 がくり、と紅の着物を着た男が膝をついた。


 何処からともなく放たれた銃弾は、光照の肩を打ち抜いていた。


 鈍器で殴られたような衝撃が、次いで焼け付くような痛みに変わる。声を堪え、歯を食いしばるが、痛みは治まっていくどころか次第に存在感を主張するように、躰の中で膨れ上がっていく。


 今、態勢を崩すことは死を意味するだろう。


 躰の反応を意志の力で抑え、噴き出て来る汗に濡れた顔でサミュエルを見る。不意を打つことに成功したであろう、サミュエルの表情は、しかし光照の予想とは大きく食い違っていた。


 まるで撃たれたのは自分であるとでも言わんばかりに、何が起きたのか全く理解していない様子である。


 弾丸はサミュエルよりもさらに後方から放たれたのか。


 その向こうに潜む闇の中より、一斉に大勢の僧が読経するような声のうねりが聞こえてくる。


「観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦腹如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明咒 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆呵 観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦腹如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明咒 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆呵 観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦腹如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明咒 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆呵 観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦腹如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明咒 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆呵」


 闇の中から現れた軍服に、光照は身を震わせるほどの驚愕を覚えた。


 まさか陸軍が、まだ機能しているとは。いや、それよりも、何故陸軍が皇族に反旗を翻すのか。


 痛みに混濁する意識を覚醒させるために、光照はそれまでに仕入れた情報を回転させ、状況を把握するが、陸軍が天皇を狙う理由は何一つ見つからぬ。


 当然だ。軍隊は国を護るために、ひいては天皇を護るためにあるのだから。


「くッ……」


 よろめきつつも立ち上がり、光照は一つの情報を記憶の中から拾い上げた。


 帝都が闇に閉ざされる前に、伝え聞いた噂話。


 演習場で、一個大隊が忽然と神隠しにあったなどという話があった。


 指揮官は、柿崎平八郎。





 肩を撃たれた傷を抱え、サミュエルと陸軍兵士を相手にするのは、明らかに分が悪い。


 一瞬の隙をついて、光照はくるりと踵を返すと、背後――旧本丸方面に全力の疾走を開始した。

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