第二十六章第三節<真の鬼は、何処にありや>

 宗盛には、妻の死は病死であると伝えられた。


 しかし遺体は無く、形式的な葬儀が行われたのみ。


 防壁の問題についても、詳細は伝えられることは無かった。


 全てがうやむやのまま、闇に葬られていくことに深い怒りを感じた宗盛は、しかし今の立場では限界があると悟り、一つの選択をとった。


 すなわち、陸軍に入隊し、新政府の内部を探ろうとしたのである。あれだけの規模の計画をなかったことにしてしまえるくらいの権力を有しているのは、いったい誰なのか。


 陸軍中尉の地位にまで上り詰めたとき、宗盛はとある上官から呼び出しを受けた。


 卓越した戦闘能力と剱技の腕を見込んで、特殊訓練に参加してほしいという話であった。


 事実、恵まれた体躯と武家の出身であるということから宗盛は一目置かれた存在であった。家筋のことを快く思わない輩もいるにはいたが、大半の人間は宗盛を好意的な視線で見ていた。


 上官自体も、宗盛は尊敬するに値すると評価していた。いささかの緊張はあったが、その話を断る理由はどこにもなかった。


 時刻は夜。

 演習場の中での宗盛の視界を最後に、綾瀬との交信は途切れた。


 




 まるで霧が晴れるかのように、それまで綾瀬を包んでいた妖気が四散していく。


 舞台は、深夜の田安門に戻っていた。たった今まで見せ付けられていたのは、あの男の過去。


「紀藤、真之介、宗盛」


 その不安を確かめるように、綾瀬は微かな声で名を呼んでみる。


 ぼさぼさの頭をした男は、名に導かれるように顔を上げた。


「あの夜、演習場で何があった」


 聞かずとも、おおよその想像はついた。


 宗盛がこの国に抱いている、深い憎悪。


 崩壊寸前の幕府ではあったが、自らの犯した過ちを忘れてはいなかったのだ。


 しかし償うためではなく、隠蔽するために。


 政府は軍に命じ、宗盛を消そうとしたのだ。


 途端に、綾瀬の全身の痛覚神経が揺さぶられるほどの痛みが襲ってくる。


 綾瀬にも経験がある類の痛みではあったが、比べようも無いほどのもの。あたかも鈍器で四方八方から殴られ続けられるような衝撃を伴うもの。


『包囲され……倒れることすらできずに射撃を受けたのか……』


 妻を殺され、己を消され。


 それは建国という華々しい外見からは決して見ることのできない、暗黒の世界。癒されることの無い慟哭と苦悶と怨念とに苛まれ続け、彼はそしてついに妖気を纏う、生きた鬼となったのだ。


 絶えず魂魄を啜り、かじり、温かい血と新鮮な生気を求め、彼自身の存在を刻一刻と冥府へと導く邪気。


 それを纏ってもなお、日本という国を許せぬ怒り。


「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」


 いかなる熟練の剱士をも凌駕する、怒号による剱気が拡散する。


「殺してやる、殺してやる、殺して……ッ!」


 狂った猪のように身をかがめ、宗盛が綾瀬に突進をかける。


 まだましに動くほうの足に体重をかけ、それを躱そうとしたが。


 綾瀬はふらつく膝を叱咤し、その場に踏みとどまる。


 すぐ眼前に迫る宗盛の瞳。左の眼窩に光る、人の目ではありえない奇妙な石を濡らしている涙。


「ちっ……」


 構え、宗盛の太刀筋を受けるが、猪突の衝撃までは創痍の躰では殺せず、そのまま背後の壁に叩きつけられる。


 ばらばらと降り注ぐ破片を浴びながら、なおも鍔競り合う両者。至近距離で羅刹の顔を見た綾瀬は、ぎりと歯を軋らせながら呟く。


「だからって、てめえが何してもいいってわけじゃあねえだろうが!」


 亡き妻を想っての雫か、それとも力無き己を嘆いての苦渋か。どちらにせよ、それは綾瀬の太刀の鋼光を受け、美しくきらめいた。


「てめえのやってる復讐、ってのはよぉ……糞みてえな奴等と同じところまで、てめえを貶めることなんだよ」


 己の受けた苦痛を返すことは、圧倒的な力で相手をねじ伏せること。


 力によって力を滅する。刀にかかる力が、ふと緩んだ気がした。


「そんなこと、あの別嬪さんが望んでたとでも思ったのか?」


 そして介入してくる、宗盛の意識。


 日の当たる縁側で、互いに微笑を交す二人。妻が優しい表情で、自分の腹に手を当てる仕草。


 綾瀬にそれを伝えたのは、言葉を忘れた宗盛に他ならぬ。


「てめぇ、子供が……!」





「まったく、やってられんな」


 英霊を従える正光は、組み合う二人を遠巻きに眺めつつ、溜息を吐いた。


鷲翼伯犬グラーシャ・ラボラス……奴の魂を叩き直せ」


 命令に従い、英霊は翼を広げた。


 そこから抜け落ちる数枚の羽根。それは一度宙にて静止し、そして恐るべき速度で宗盛の背中に突き立った。


 傷としては無視できるほどのそれ。しかし戦いと殺戮を司る英霊の力が、そこから宗盛の自我を崩壊させるほどの呪詛を注ぎ込む。


「があああああああああああああああああああああああッ!」


 身を反らせて吠える宗盛。


 青い瞳が激しく明滅し、涙が止まる。


 背後で正光が何をしようとしているのか、綾瀬にも予想がついた。


 痛む躰を起こし、太刀を握る。太刀を覆う光が、凄まじい霧のような剱気となる。


<……行くのね?>


「あぁ」


 太刀<胡蝶>の声に、綾瀬は応える。


 知らずのうちに、綾瀬は太刀と同調していた。


 怒りを暴走させるのではなく、感情に操られるのではなく。


 そして太刀はまた、彼を所有者として、適任者として、認めた。


 霧が渦を巻き、その中から綾瀬が向かってくる。


 正光と綾瀬の間には、あの英霊がいる。


 命令を下すまでも無く、英霊が前肢による横薙ぎの攻撃を仕掛けるも、爪に手ごたえは無い。一瞬にして現れ、一瞬にして消えた綾瀬の気配に、正光が動揺したときであった。


「捉えたぜ」


 綾瀬の声は、背後から聞こえた。


 迫ってくる殺気は、右から聞こえた。霧の牢獄の中で、正光は焦る。


 太刀<胡蝶>は、幻を生む力を持っていた。


 それが綾瀬に与えられた、太刀の真の威力。


 背後にいる綾瀬が振りかぶり、背を袈裟懸けに切りつける。


 同時に左右の霧から現れた綾瀬が、正光の首筋と腹にそれぞれ、一閃を叩き込む。


 剱を学んだものならまだしも、武道には素人の人間に躱せる太刀筋ではなかった。ほぼ一瞬で三つの斬撃を余すところ無く身に受け、正光はほぼ確実に絶命するかと思えた。


 だがどの刃も、致命的なまでに肉を抉ることは無かった。


 正光に、西洋術師団から与えられたソロモンの英霊は、同時に彼を護るごく薄い障壁をも生じさせていたのだ。


 完全に防ぐには熟達した術師で無ければ無理。だが綾瀬の剱を、命を落とすまでには至らしめぬようにするには、十分であった。


「ぐあぅッ……!!」


 ぼたぼたと鮮血を滴らせつつ、しかし倒れることなく正光が腕を上げる。


 奇声を上げ、英霊が上空から爪によって正光の襟首をぐいと引き上げた。


 翼の生み出す風によって太刀の霧は吹き飛ばされていた。


「貴様……許さんぞ、この私に傷を……許さんぞッ!!」


 ごぼりと血が溢れる首の傷に手を当てたまま、正光は、夜の闇の中に姿を消していった。

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