第二十六章第二節<人身御供>
黒船来航。
その事実は、日本を震撼させることになった。
大多数の人間にとって、はじめて感ずる鎖国という壁の外の存在。黒船という言葉自体が、圧倒的な存在感と威圧感を伴うものとして、人々の口から口に語り伝えられていた。
鋼鉄製の船舶と、それらに搭載された兵器の数々。親善交渉という名目を口にしていても、それが己の殻に閉じこもった極東の一国の封印を武力で破らんとするものであることは人目で知れた。
将軍の威光と幕府の権力は、ここに一つの失墜を見たといっても過言ではないだろう。
日本が鎖国をしてきたことで、これほどまでの技術的な後進国になっていたという事実は、間違いようもない一つの衝撃として人々を打ち据える。気の弱い者であれば、そのような舶来の国が黒船のような兵器を次々に持って攻め込んでくるやも知れぬと恐れ戦いた。今でこそその感覚は笑い飛ばせるものであるが、当時の人間にしてみればそれも当然の反応であったことだろう。
一部の知識層階級を除き、外国の情勢を正確に把握している者等、皆無であったのだから。
そして、無知は民衆だけではなかった。
幕府の役人は、その日を皮切りに瑿鬥市中で人狩りを開始したのだ。
当然、そこには何がしかの名目をつける。さすがに人狩りなどという非人道的なことを大々的に行ったとあれば、民衆の反感を買うことは火を見るよりも明らかだ。
そこで役人たちは策を講じた。
もうすぐ、この街に異国の人間がやってくる。黒船に乗っている人間は、この国に見聞を広めに足を運んできたのだ。そのため、日本という国が如何なものであるのか、それを知る際に斯様な浮浪者どもがいたのでは醜聞も立とうというもの。彼らは幕府によってきちんとした施設にて一時預かる故、ご安心召されよ。
標的となったのは、文字通りの宿無しの者らであった。人々はそうした者たちの姿が消えていくことを感じつつも、自分たちの生活に対してはなんら干渉せぬ役人の動きに、いつしか気を向けなくなっていた。
そして一月が経過した。その日、武家の名門でも知られる紀藤家の門を叩く役人の来訪は本当に青天の霹靂といってもよかった。
座敷に通された役人と顔を合わせたのは、紀藤真之介宗盛という男であった。
着物の上からでも荒々しい無骨な肉体が感じられる。常人とは骨の長さ太さからして異なるのではないかと思わせるほどの巨躯を有している。
だがごつごつとした巌のような顔をしていながら、宗盛の性格は柔和であった。その気になれば無手ですら殴殺できるほどの体格差をしていながら横柄な態度を崩さぬ役人に、宗盛は礼を欠かさぬ態度で出迎えたのだ。
向かい合った役人は、出された茶に手もつけずに、開口一番にこう言い放った。
「お前の妻を、我らが元に預けてほしい」
何の説明もなされずのその言葉に宗盛が驚くのも無理はなかった。無言の刻が流れ、そして宗盛は改めて問うた。
「それは、何故でありましょうか」
役人は何かを逡巡している様子であったが、ややあってしぶしぶと言葉を発した。
「これより我の言葉は他言無用に願う。もしその禁を破るようなことがあれば」
「私も武士のはしくれです。そのようなご心配は無用にございます」
座していてなお、頭上から降り注ぐような宗盛の言葉がまこと、心から湧き出た言葉であると確信した役人は、そこでやっと湯飲みに手を伸ばした。
「噂では、お前の妻は千里眼を持つと聞く」
千里眼、という言葉は、当時はもっと現在よりも広い意味によって用いられていた。単に遠くの事柄に精通しているというだけでは、それは知識人同士の交流によっても可能になる。
いわく、役人はその言葉を、現在における同義語で訳すとすれば「霊能」という意味を含ませて使ったのだ。
役人の言葉に、宗盛の表情は凍った。その言葉の持つ意味は、現在とは比べようもないほどに、差別的な見解をも併せ持つことであったのだから。
「安心しろ。我々はそのようなことで、妻をどうこうしようというつもりはない」
ず、と茶を啜り、宗盛は知らず身を乗り出す。
「では、どのような」
「黒船は来年、もう一度来ると言い残した」
もう一度来るということは、彼らが日本という国を諦めていないことを意味していた。
鎖国を解き、交流を結ぶ。それを求めた異国の船が帰り、そして幕府が揺れたことは宗盛も知ってはいた。
「今、結論は出てはおらぬ。しかし次に奴等が来たときは、我らは答えを出さねばならぬ」
役人の言葉が終わらぬうちに、庭で虫をついばんでいた小鳥たちが一斉に飛び立った。羽ばたきと囀りの音にかき消されそうになりながら、役人は確かに、こう言った。
「その千里眼の力によって、そして同士によって、我らは黒船より瑿鬥を護る」
「……おい」
綾瀬は言葉を発した。
奇妙な感覚であった。自分の躰は感じられず、どのような状況になっているのかすらわからぬ。しかし今、自分が体験しているこの様子は、確かにあの巨漢の過去なのだ。
紀藤真之介宗盛。それがあの男の名なのだ。
あの邪念の触手が自分を呪い殺そうとして差し伸べられたのではないことはわかった。
だが。
「こんなモン、俺に見せて、どうしようっつんだよ」
答えはない。代わりに、まるで絵を差し替えたかのように、綾瀬の視界に新たな光景が入ってきた。
一人の女性がいた。
目の前には、瑿鬥湊が広がっているはずだ。
はず、というのは、湾が見えぬ所為であった。
視界をさえぎっているのは、石組みの壁。大きく分厚いそれは、見渡す限り延々と続いているようであった。
黒船来航から約束の日まで、約一年。その期間に、瑿鬥の町を護る防護壁を築かねばならぬ。
女性は後ろ手に縛られていた。白い着物を着せられ、静かな面持ちで座している。
女性の隣には、泣き叫ぶ童がいた。呆然と空を見上げる翁がいた。泣きさざめく女がいた。
一人の女性を除き、老若男女はみな、汚らしい風貌をしていた。
その者たちを挟むように、石は積み上げられていく。髪の長い、その美しい女性は他ならぬ宗盛の妻であった。
さらに映像が変わる。
雨が降っていた。
二重の構造になった壁の間にも、雨粒は降り注ぐ。
彼らはまだそこにいた。しかし、その大半が物言わぬ躯になっていた。
妻はまだ生きていた。
げっそりとやつれ、着物は垢と埃と汚物に染め抜かれてはいたが。
静かな面持ちは変わらぬ。
降り注ぐ水滴を飲もうというのか、女性は口を開けた。
同時に、口の中が垣間見えた。舌は無残にも切り取られていた。
三月の後、壁は完成した。
浮浪者を全てその内に塗りこめることによって。
すわなち、人身御供の邪術。
躰が朽ちなければ、念は残る。人柱がどうして崩れぬのかは、そこにある。
殺された者は無論、自分を追い詰めた者らに深い呪詛を抱く。しかし同時に空間を完璧に遮断されてしまうと、そこから遠くはなれることができなくなってしまう。
呪詛は果たしたいが、動くことはできぬ。その渦を巻く思念が、自分の躯を破壊しようとする全ての力に対抗して働く。つまり、それが結果として、人柱を塗りこめた建造物を護る力として転嫁されるのであった。
人の思念を単なる道具としてしか扱わぬ、忌まわしき呪法。それによって、万が一黒船が砲撃を放ってきたとしても、壁が我らを護ってくれる。
だが壁の中で、宗盛の妻は生きていた。渦を巻く呪詛思念に取り囲まれながら、生きていた。
彼女の力は、浄化。凄まじき霊圧となった壁の内側において、彼女はただ涙を流していた。
願いは恨みを晴らすことではない。
こうなっては、愛しき夫に逢うこともかなわぬ。ならば、この者たちの魂を、無事に成仏させてやりたい。
壁が完成した夜、激しい嵐が瑿鬥の町を襲った。
次の朝、壁は打ち崩されていた。
落雷が幾たびも壁を打ち、修復不可能なまでに壁は破壊されていた。不思議なことに、人身御供に封じた者たちの屍骸は、跡形もなく消え去っていた。
そして、嘉永七年三月三日。
日本の鎖国は解かれ、日米和親条約を締結。
宗盛の妻は、犬死にに終わった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます