第二十六章第一節<古き、深き、記憶>

 耳にした者の精神領域に入り込み、心の弱い者なら瞬時に恐慌状態に陥るであろう、混乱の魔力を含んだ奇声が英霊の口から発せられた。


 前肢をしっかりと大地に立て、喉をそらせ、翼を打ち振るい、吼える。


 だがそれは常人であればの話だ。


 ここにいる者らはみな、童子斬の技を鍛錬の末に学んだ武士の末裔。そのようなことで自らを失うほど、脆弱な精神は持ってはおらぬ。


 しかしそれでも、綾瀬は沸き起こる恐怖の気配を感じる。それはまるで体の表面の温度がふっと低下し、身動きすらできぬほどの硬直が間近に迫ってくるような、えもいわれぬ恐怖。


 心の隙に忍び寄る魔力を気迫の一閃で打ち払うと、綾瀬は息をゆっくり、長く、緩やかに吸う。


 今のところ、こちらに損害は出てはおらぬ。


 対するあの巨漢は腕に一つ、腹に一つ、太刀筋を受けて血を流している。


 勝機はある。それにはまず、この桁外れに強い魔物を斬らねばならぬ。


 呼吸を緩やかにし、自分の精神を意図的に凪の状態にもっていく。感情の起伏をより少なくすることで、太刀に宿る力の純度をより高める。


 その変化は、英霊もまた感じ取ったようであった。剱のような鋭い爪で、大地に幾筋もの傷を刻みつつ、威嚇するように声を上げる。


「行け」


 正光の声が英霊を打つ。正眼に構えたまま瞼を半ば閉じた綾瀬に、英霊は飛び掛っていった。


 頭上から降り注ぐのは爪の一閃。受け止めれば圧倒的な膂力の差から態勢を崩し、続く攻撃から身を護ることはできなくなるだろう。


 避ければ避けたで、同じく構えを崩すことにもなる。


 しかし綾瀬は、呼気を止めただけであった。


 ゆらり、と抜き身の刀身から気炎が立ち上る。霊刀と綾瀬の意思が融合する。


 綾瀬はまるで眼前に迫る英霊が見えてはおらぬかの如き動きで、一歩を踏み出し。


 そこから一気に英霊と交錯するように、鍛え抜かれた脚力で傍らを駆け抜ける。


 狙いは英霊にあらず。背後にて身を隠す、あの邪術を使う男。


 唐突に眼下より姿を消した綾瀬に狼狽し、英霊が着地と同時に攻撃態勢を取り、探索を開始。


 だがそのときには既に、綾瀬は正光に迫っていた。


 あの魔物はこの男が呼び出したもの。綾瀬には呪術の知識などなかったが、その一つの事実は予想することができた。


 すなわち、この男を殺せばあの魔物も消えるであろう。


 召喚された魔族と呪術者の相互契約の理論。


「御免」


「ひ……ッ、殺せ、グラーシャ……ッ!?」


 音程の狂った楽器のような声をあげ、正光が身を引いた瞬間。


 綾瀬はその太刀を振りかざし、袈裟懸けに命脈を一刀の元に絶とうとしたとき。


 背後から凄まじい衝撃が、綾瀬「だけ」を襲った。


 まるで棍棒によって背をしたたかに打ち据えられたかのような衝撃。それは英霊の翼から生み出された、空気の塊であった。魔力によって生成されたそれは無論、召喚者を傷つけることはない。


 気弾の直撃を受けた綾瀬は、よろめきつつも太刀を振りぬく。


 手応えは少ないが、あった。刃は正光の肩口から肺、心臓までを抉ったのではなく、単に左腕を付け根から斬り落としただけであった。


 そのまま綾瀬の躰は宙を舞い、門の残骸の中に頭から激突する。


 がらがらと崩れ、さらに倒れた綾瀬の上にも木っ端が降り注ぐ。


 あまりの衝撃に、綾瀬は呼吸すらできなくなっていた。背骨が折れるかと思える衝撃に、綾瀬は身を引き裂く鈍痛をこらえ、何とか目を開けて視界を確保する。


 鮮血に濡れた肩を抱いて絶叫する正光と、その向こうには依然としてまだあの魔物がいる。


 怒号の交錯は、ここからは見えぬが巨漢と童子斬たちが戦っているのであろう。


 まだ痺れる腕を伸ばし、ぐっと躰を起こす。


 ちりん。


 痛む頭をそのままにする綾瀬の視界に、何か光るものが入った。


 もともと落ちているものではない。その証拠に、まるで綾瀬の元にたどり着いたとでも言わんばかりに、それはころころと転がり、そして綾瀬の指の先でぱたりと倒れた。


 拾い上げてみると、それはボタンであった。


 見覚えがある。はっきりとは見たことはないが、それは確かに軍服のボタンであった。どうしてそれがこんなところにあるのだ。


「くそったれ……!」


 破片を振るい落とし、立ち上がる綾瀬は、見た。


 二刀流の巨漢は、仁王立ちのまま動きを止めていた。


 その前に立つ、無事な童子斬の姿はない。見れば周囲の壁に打たれ、地に伏し、誰もが苦悶の声を上げながら動けずにいる。


 まさか、先ほどの衝撃はこちらにまで届いていたのか。巨漢との戦闘に気を奪われていた彼らを衝撃が襲い、混乱の中で巨漢に打ち倒されたというのか。


「お前たち……!」


 額を伝う血の温もり。その声に反応したかのように、巨漢がゆっくりとこちらを向く。


 左目のある部分から、淡く青い光が漏れ流れ、こちらを見る。


 修羅、羅刹の目ではない。


 深い慟哭。闇の絶望。そうした複雑な感情が巨漢の目には溢れていた。


 どうしてこんな感情を、あの男が。


 はっとなる綾瀬。


 巨漢のまとう襤褸に、同じ輝きがあったからだ。


 拾い上げたボタンと同じものが、既に原形すら留めぬ物乞いのような襤褸の中で、光る。


 軍人だったのか。それが何故。


「食み、散らせ……人の、皮を、かぶりし、悪鬼を……」


 押し殺した声で、巨漢が呟く。


 がらり、と背後で木っ端が崩れる音がしたときであった。


 巨漢に纏いつく邪霊の一部がぐいと引き伸ばされ、触手のように綾瀬に向かう。


 気づくのは遅かった。


「しまっ……!」


 ぐるりと脚から腹、胸までを駆け上り、煙が綾瀬の全身を覆いつくす。


 太刀を持ったまま、立ち尽くしたまま、綾瀬は速やかに意識を失った。

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