間章ⅩⅩⅤ<闇の闘争>

 皇城における一斉攻撃が開始した時刻に、やや遅れ。


 人家もまばらな森の中に、闇が強く凝った。


 肉感的な紅の唇と、そこから覗くぬめ光る歯が凄まじき妖気を含んだ呼気を吐き出す。その笑みは、同じく身を浸す闇の中に明らかに知る気配を悟ったからにほかならぬ。


「待っていてくれたのね?」


 女の声に導かれるように、ぼうと眼前の闇の中に白い晴明桔梗紋が浮かび上がる。


 軍服、軍帽、軍靴に身を包んだ痩身の軍人。だがしかし、鍔の下から覗く瞳は、人とは思えぬほどの眼力を有している。


 かつて、浅草寺で邂逅を果たした二人。


 だが今の状況は、浅草寺での殺気を数倍するほどの規模にまで発展していた。


 それはなにより、今の場所の所以であろう。


 栃木の羽黒神社。それは帝都の守護を担う最後の結界を護る聖域であるのだから。


「そこまでして、この国の破壊を望むのか」


「そうではないわ」


 呼ばれた女――アリシア・ミラーカは大きくうねるブロンドで片目を隠すように俯き、そして扇情的な上目遣いの視線を男へと向ける。


「私はこの国を欲しているの。この国に流れる、無尽蔵の霊脈をね」


 それに対し、男は短く鼻を鳴らしただけであった。手袋に包まれた指をぐっと握り締め、男は一歩、進み出た。


「そう、その一歩……私に踏み出すだけの、何気ない、そして何千回何万回と無く繰り返してきたその動き……」


 アリシアは黒い絹の手袋をはめたままの細腕を、前に伸ばす。


「けれど私の前で、その動きをこなしてみせる貴方……素敵よ?」


<我が求めに応じ、天空の彼方より来たれ雷の精……!>


 アリシアの唇は微動だにせぬ。


 しかし代わりに、何処からとも無く歪んだ声が響き、呪を紡いだ。


 アリシアの掌に光が生じたと思えた瞬間、それは凄まじい威力を持つ雷撃となって男へ向かって放たれた。


 光の速度で飛来する圧倒的な破壊の化身。およそ人ならば、己の身を打ち砕くものが何であったのか、それすら知らずに命を落としていることであろう。


 しかし、それは人であったなら、の話。


「愚かな」


 避けようともせず、対抗呪紋を練ろうともせず。男がとった行動とは、いつしか手に握られていた黒塗りの大きな銃を、アリシアに向けるというものであった。


「Wake up , Witchtrapper!」


 男の唇から異国の言葉が漏れる。


 続いて引き金が絞られると、銃口から一発の銃弾が発射された。


 既にアリシアは雷撃を放射している。


 銃弾は一秒にも満たぬ間を置いて、雷撃と接触。天空より降り注ぐ雷撃にひけをとらぬ魔術の前に、一発の銃弾など瞬時に蒸発するかと思えた。


 しかし弾丸が雷撃に飲まれた瞬間、銃弾は自ら四散する。


 出現し、破片が帯びているのは淡い光。放射状に飛び散った破片はそれぞれの軌道を空中に描き出し、同時に相互の破片同士を光によって連結。


 出現したのは、魔力を底なしの穴へと飲み込む、吸引式の霊的な罠であった。雷撃は自らその虚空へと身を投じる結果となり、あっという間に光は消失する。


「……ふぅん」


 アリシアは手を突き出したままの格好で、唇だけを動かして笑う。


「流石ね、壬生九朗?」


「穢れた夜の后よ、お前がその名を口にするのは許さん」


「許さなかったら……」


 ふっと闇が濃くなった気がした。


 いや、それは錯覚などではない。現実に、九朗の眼前からアリシアの姿は消えているのだから。


 九朗はしかし、アリシアの動きを正確に把握していた。


 把握しながら、現在の態勢を崩さずに待つ。


 下手に動き、相手に有利な隙を与えたくは無い。


「どうなるのかしらね!?」


 声は、九朗の予測していた背後ではなく、右側面から響いてきた。


 それに対する反応が一秒を十に割ったほどの時間、遅れる。だがその隙に、アリシアは太腿が露になることもいとわずにヒールを履いた脚で九朗の右腕を蹴り上げた。


 女とはいえ、その蹴りの威力は凄まじかった。


 たった一撃であるにもかかわらず、九朗の肘の関節と腱は衝撃によって完全に破壊、断絶していた。


 だが、その激痛を与えたであろう攻撃にも九朗は怯む様子すら見せぬ。それどころか、アリシアに向き合うように態勢を変えつつ、残る左腕でだらりとなった右腕を掴み、袖ごとおもむろに引き千切った。


 ごぼりと濁った血が腕の切断面から溢れ、軍服を濡らす。普通であれば、絶叫を上げつつ苦悶にのたうつ激痛が身を襲っているはずであるが、九朗は眉一つ動かさぬ。


 そして後ろに飛びすざりつつ、腕の残骸を投げ捨てるといつの間にか左手に銃が握られている。


「Wake up , GUNNER!」


 至近距離から、九朗は微塵も躊躇うことなく数発の弾丸をアリシアに向けて放つ。


 弾丸は標的を外すことなく、アリシアの額と喉、右目、そして左胸を正確に破壊。


 ぐらりと躰が傾ぎ、力が抜ける。九朗はそのままの態勢で、即死状態のアリシアをじっと見つめたまま。


「最後の結界は、壊させるわけにはいかん」


 もう少しで、アリシアが仰向けに倒れるというところで。


「そう、それは残念ね」


 確かに脳を破壊したはずのアリシアが、流暢な言葉を発する。


 やはり、死んではいなかったのだ。


 それでこその|吸血鬼(ミディアンズ)。腹筋の限界を軽く超えるほどの勢いで、アリシアは上体を起こした。


 血に塗れた顔面は、しかし壮絶なまでに美しい。


 まるでデスマスクのようであったが、眉間と眼窩の銃創だけは、既に再生が終了している。


 ただ顔を濡らす紅の化粧だけを残し、アリシアが笑う。


「ひさしぶりに楽しめそうね」


 アリシアの微笑みに、九朗は表情を崩さず、腕の再生を開始。


「本当の吸血鬼ミディアンズというものの戦いを……そうではなくって?」


 アリシアの犬歯が、唾液に濡れ光った。

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