第二十五章第二節<陰陽の道>

 燃え盛る炎は周囲の酸素を取り込んで、まるで柱のように漆黒の天蓋に屹立していた。


 北斗の目の前で、かつて梓とはじめて巡りあった桜田門は業火に包まれていた。


 激しく舐る炎の舌は、乾燥していた門を瞬時に取り込んだ。渦を巻く煙と肌を炙る熱気。


 それらを背に、北斗にも見覚えのある男がいた。


 エノク術師、ユリシーズ・ベネディクト。


『南の方角から炎を操る呪術師……公式通りですね』


 燃え崩れる門の影の中でも、霊力を込めた八卦符は朽ちる事無く力を帯び続けている。ユリシーズはぱんと手を打ち合わせると、唇を歪めた。


「また会ったな、森の神殿以来か?」


 スーツの上着の襟元を直し、北斗は無言の視線を叩きつける。咥えたままの煙草から紫煙を吐き、ユリシーズは余裕を見せ付けるかのように空を仰ぐ。


「あの時のお前の術は覚えてるぜ……なんせ、あの炎を防ぎきったんだからな?」


 エフィリムの放った火球を防禦した、北斗の九字結界。全力を注ぎ、結果として気を失いはしたが、それだけ方術としての技量は抜きん出ていることの証明でもあった。


 ユリシーズは北斗が無言であることに溜め息を漏らすと、瞳の輝きを変えた。


 目を開いてはいるが、意識の知覚領域を現実世界から瞑想へと切り替える。


 幻視状態になったユリシーズの精神に投影された炎の錫杖が、瞳を通して再度この空間に投射される。思念の力を借りて、錫杖が同じ空間に固定されると同時に、ユリシーズと同じ瞑想位相の視点を持ちえるならば共通した物質像としての、揺らめく紅蓮の霊気を纏う身の丈ほどもある魔術武器が手に握られていることが見えるようになる。


 無論、エノク術と墨曜道の違いから、それを北斗が明確に見ることはできない。


 だが西洋魔術に共通した、属性に象徴される魔術武器の召喚は、北斗にも霊力の増大という結論を促させた。


「空間の支配者、T=A=B=N=I=X=Pター・ベン・イーツ・ペーによりて従順を誓いし汝、真なる名L=I=X=I=P=S=Pエリー・ツィー・ペー・セー・ペー、その諸力を我に」


 魔術的戦闘が展開される第三のアイティール。ユリシーズはその階層に到達し、かつて打ち破った大天使の力を具現化させ、自らの霊力をさらに高める。


「そして、成せ。煉獄の業火よ」


 錫が振られるや否や、北斗の全身を門扉を朽ちせしめた炎に匹敵するほどの魔力によって生み出された焔が包み込む。


 圧倒的な熱と光の暴虐の中に囚われると見られた北斗ではあったが、不思議と熱は感じない。


 しかし炎は依然として存在する。


 呪術師の精神統一により発生する霊的障壁を、視覚的混乱によって失わせ、強烈な自己暗示の中で北斗が知る限りの炎のイメージを逆に彼の精神に投射する。現実には存在し得ぬ炎によって、相手を焼き殺すという、凄まじい呪殺手段であった。


 だが対する北斗も、このまま命を落すほどには未熟ではない。懐から素早く一枚の白い紙片を取り出し、それを己の手首から肘にかけて、指で押し当てたままなぞる。


 炎に包まれてもなお微塵も動じぬその所作に、ユリシーズが気付いたときであった。


 北斗の取り出した紙片は、人の形に切り取られてあった。


「身をなでかつ師に送るる、その人形ひとかたを以て祈祷することあり、扨後に河へと流す也!」


 眼鏡の奥で北斗の瞳が鋭く輝いたかと思った刹那、その躰はまるで放たれた矢の如くに炎から駆け、ユリシーズへと迫る。


 北斗が狂乱状態に陥ったのではないことは確実だ。もしそうならば、動き出す前に彼の全皮膚神経は迫り来る炎熱を感じ、混乱を来すからである。


 そして、呆気に取られるユリシーズと擦れ違いざまに、北斗は指に挟んだ紙片でユリシーズの躰に触れる。


償物あがものによりて術を返さん、これすなわち撫紙なり」


 浄化作用の逆を相手に施す、墨曜道の呪詛返しの法であった。


 北斗に向けて放ったはずの呪いの炎は、まったく同等の威力を持って主たるユリシーズへと襲い掛かる。


 呆然となるユリシーズは視界が紅一色に染め上げられることに、完全に恐慌状態になっていた。耳をつんざく悲鳴を背後に聞きながら、北斗は印を結んで撫物の和紙を燃やし浄化しようと指を突き出したとき。


 




「神火清明、神水清明、神風清明ッ!」


 流暢な呪紋が聞こえたかと共に、確実にユリシーズに送り届けられたかに思えた炎の呪力が掻き消えた。


 はっとなって振り向く北斗の視線の先には、全身から煙の糸を上げつつ、まだほとんど火傷すら負ってはおらぬユリシーズが地に膝をつき、荒い呼吸に肩を上下させている様子があった。


 先ほどの呪紋は、確か大陸の呪術のものだ。


 訝しみつつも踏み寄る北斗の爪先の前に、一枚の符が落ちていた。


 黒い紙片に書かれたそれを裏返してみると、そこには朱墨で綴られた道教の符。呪禁道に連なる、鎮禁呪符。


 まさか。


 表情を凍りつかせる北斗。


 同じ流派、東洋の術を使う術師がこの周囲にいるということだ。


 そう気付いたと同時に、ぱんぱんと手を打ち合わせる音が闇の中から聞こえてくる。


「異教の術をも跳ね返す手練れ……見事、というべきか?」


 闇に同化するほどに黒く艶のない、道士服。ただ、夜目にも明らかなのは服の胸元には大陸の呪術世界を象徴させる紋章が縫いとめられていた。


「我が名は美輪誠十朗。明璽天皇の御命、頂戴仕る」


 疑う余地はない。


 この男が自分たちよりも先回りし、帝都を守っていた四方結界の内三つまでを看破し、破って来たのだ。


 しかも、自分は一度たりとも前線に出る事無く。


 誠十朗はユリシーズに深手がないことを確かめると、瞳を閉じて観想を凝らす。


 そして。


「ほぅ……奇妙な陣が見える……これを張ったのは、お前か?」


「どうでしょうね」


 北斗はその時点で、既に凄まじい速度で思考を巡らせていた。


「諸葛亮の張った奇門遁甲とも違う……しかし、勝ち目はないぞ」


「そうでしょうか」


 誠十朗は北斗の問いに、確信をもって頷いた。


「貴様と俺では、業が違う。如何に貴様が優れた術師でも、俺には勝てぬ」


 誠十朗の貌に、影が忍び寄る。陰影で描かれた影絵のようになりながら、誠十朗は言葉を続けた。


「貴様の結界など破ってくれる……闇を知らぬ貴様の術など、陰陽の技では児戯にも等しいわッ!」


「破れるものなら、破って御覧なさいッ!」


 気迫と共に、北斗の指先が魔式を禁ずる印を結んだ。

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