第二十四章第一節<九月十八日、午後十一時半>
スーツの懐に手を差し入れ、ユリシーズは銀の懐中時計を取り出し、慣れた動作で蓋を開ける。
まるで時計とは如何に精密な機械であるのかということを証明すると言わんばかりの、無数の歯車が回転している。文字盤は無く、その代わりにそうした内臓機関が全て見える仕組みになっている品であった。
短い針は、真上から僅かに左に逸れ、長い針は逆に右に逸れている。示す時刻は、午後十一時半に僅かに満たない時刻。
まだ少し、時間があるな。
時計を再び懐にしまうと、ユリシーズは改めて数十メートルほど離れたところに見える、一つの門を眺めた。
方位的には南に面した門である。
だがその内側は、見て取ることができない。無論、通常の視力では遮蔽物を透過して向こう側を見ることはできない。
しかしユリシーズは、通常の視覚で捉えた事象を精神的なスクリーンに投射することにより、魔力の流れを知覚することができた。
この中に、日本という国を霊的に支える象徴がいると聞く。外側をゆっくりと巡る霧のような気の流れは確認できるものの、その向こうに何があるのかまでは分からぬ。
普通の結界ではないな。
ユリシーズは溜め息を一つ吐くと、巻き煙草を取り出し、火を点した。霊的な存在を退ける結界の類であるならば、結界自体が保有する霊力を「観る」ことができる。
事実、彼は皇城全体を覆っている、神祇調による結界は知覚しているのだから。
だとすれば、この向こうに潜んでいるものは一体なんだ。日本の呪術師らが、何か策を練っていることは間違いない。
「なあ」
ユリシーズが背後を振り向くと、そこには路地裏に隠れるように道士服を着た男、美輪誠十朗が腕を組んで立っていた。額にかかる髪を払おうともせず、まるで眠っているかのように壁に背をもたれさせ、目を閉じている。
しかしその横顔を見る限りにおいて、誠十朗は眠ってなどいなかった。いや、眠っていたとしても、彼の眠りは浅く、短い。
「まだ時間があるぜ……吸うか?」
「否」
誠十朗は目を閉ざしたまま、ユリシーズの勧めを退けた。
「俺は奴等の使う呪術をよく知っている……心配せずとも、手は打ってある」
「ほお」
むくりと躰を起こし、誠十朗は細い目を開いて目の前の門――桜田門を見やる。
「破ることはいつでもできる、が……問題なのは再び呪術を使うということ。つまりは、如何に絶妙な間合いで呪術を破り、無効化するかということだ」
ユリシーズが咥えたままの煙草の灰が足下に落ち、その反動で立ち上る煙が揺れる。
「まあ、待つのは別に構やしないが、よ」
ちらりとユリシーズは、誠十朗の背後の闇に視線を投じる。
その中に、ほんの一瞬だけ、息を殺して蹲っているような、剣呑な気の流れを感じ、眉を上げる。
だが、次に息を吸う頃には、既に闇はただの闇となっていた。肩を竦め、ユリシーズは残りの時間を煙草をたっぷりと味わうことに使うことにし、深く灰に煙を満たした。
「ボクヨードー、とかいう呪術らしいじゃないか」
「誠十朗が話してたわね」
九段坂に面した田安門前で、アレクセイとルスティアラは闇の中でじっと門を見据えていた。
この二人にも霊的知覚はある。流派は違うけれども、人の精神力によって統制された気の流れ、西洋呪術ではアイティールと呼ばれる流れで皇城を包む結界の存在は看破していた。
誠十朗から、皇城への突入は絶対に十九日の零時を過ぎてからでなければならない、と厳しく伝えられている。
それは既にエフィリム、アリシアにまで伝えられており、現段階では誠十朗の占術によって自分たちの行動は支配されていると考えても過言ではなかった。
それに逆らう気は無い。度重なる帝都に隠された霊的配陣を見抜き、そして今まで全ての結界を破壊してこれたのも、ひとえに誠十朗の能力ゆえであろう。
そうして考えれば、誠十朗の力を正しく評価こそすれ、下らぬ逆恨みを生むことにはならない。
しかし。
「我々の国でいうところの、占星術に似たものか?」
「私に聞かないでよ」
ルスティアラは肩を竦めてみせてから、顎に指を当てて思考を続ける。
「でもまあ、似たようなものなんじゃないかしら」
占星術においては、惑星の移動と、相互の角度、方位などから占意を求める。それに相当するのが墨曜道では五行であり、色彩、方角、象徴などに該当する。
「どうして十九日でなければならないのかは……一応、誠十朗から聞いてはいるんだけど」
掌を上に向け、首を横に振るジェスチャーをしながら、ルスティアラは笑って見せた。
「肝心な説明はさっぱり。土がどうとか、ゴギョーがどうとか……東洋の術師はよく分からないわ」
「同感だ」
アレクセイは懐に手を当て、そこにあるタロットカードの感触を確かめる。
「しかし彼を見ていると、魔術と言語は似ていると痛感するな」
一つの物象を表現するのに、言語が異なれば文字列、発音は異なる。しかしそれぞれの言語を操る人々であれば、表現形式だけを見ればまったく異質のものでありながら、同じものを指すと理解できる。
つまり、四足の鼻の長い哺乳類であり、人間と共に生きて来た歴史を持つ動物を、日本語では「イヌ」と呼び、英語では「dog」と呼ぶが、「イヌ」と「dog」の間に関係は無い。
二つの言語は、共通する一つの種族の動物を介在し、我々は同一の単語であることを理解するのだ。
魔術に於いても同じことが言えよう。
たとえば、南に象徴される色彩は赤であり、属性は炎。だがそれは東洋であれば朱雀という幻想的動物であるが、西洋では天使ミカエルを彷彿とさせる。
無論、東洋には天使の概念は無いし、西洋魔術思想の中に「朱雀」と同質のものを追いかければフェニックスと呼ばれる不死鳥に突き当たる。しかしそこでは、不死鳥と南を結びつける共通点は存在しない。
すなわち、象徴と方位を結びつける絶対的な真理は存在しないにもかかわらず、それぞれの文化的背景を持つ土地において、その呪術は確かに効果を持つということだ。
だがここで重要なのは、東洋の呪術師が朱雀を霊視することで喚起する力と、西洋の呪術師が天使ミカエルの聖力として召喚する力は、ほぼ同一のものであるということなのだ。
異なるものは、それぞれの精神的共有点に帰結するのだ。基本的に力の弱い呪術は同一の精神的土壌を有するものにしか効果を表さぬというのは、これの証明であろう。
言語や精神領域を越え、強力な呪術は万人に影響を及ぼすが、日本の幽霊を西洋人が知覚できぬという所以はここにある。
「あら、珍しい……あなたがそんなことを考えるなんて」
「見縊るなよ」
口髭を震わせ、おどけて笑ってみせるアレクセイの前で、ルスティアラはついと門から視線を逸らす。
「さてと、そろそろ時間も迫ってきてるし……私、行くわね」
「あぁ」
頷いてみせ、アレクセイはポケットに手を入れる。
「ここを攻め落としたあと……私たちはどうなるのだろうな」
「無事に霊径を開けるかどうかよね」
ルスティアラが姿を消してから数刻後。
アレクセイの前に、のそりと闇の中から姿を現す男がいた。
襤褸と化した布をまとっただけの、筋骨隆々たる男。両手には抜き身の日本刀を携えた男は、その巨躯とは裏腹に、田安門正面に蹲るようにして気配を消す。
「しっかりと頼むぜ……紀藤宗盛?」
アレクセイの言葉に答えるように、男の周囲の空間を歪ませている霊気が、人の声のような響きをもって唸った。
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