間章ⅩⅩⅢ<行軍>

 九月十八日、午後十一時。


 帝都の往来を、一定の間隔を持って地を打ち鳴らす音が聞こえてくる。


 闇は依然として妖気と血臭を孕んだまま、まるで飽食の魔物のようにそこにわだかまっている。その胎内から音は微塵も乱れる事無く、ゆっくりと移動している。


 もしそこに見るものがいれば、異様な光景を目の当たりにした事だろう。もしそこに聞く者がいれば、不気味なうねり声を耳にした事だろう。


「観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦腹如是 舎利子」


 男たちの声で、経文が延々と唱えられている。しかもそれを口にしているのは、皆軍服に身を包んだ陸軍将兵らなのだ。


 軍人が経文を唱えることなど、普通はありえぬことである。


 しかもこのような夜半に、そして妖の跋扈する死の闇の中、彼らは何処へ向かっているのだろうか。


 軍靴が地を踏み鳴らす音は、まるで大地を震撼させる太鼓の音のようである。それらが一人の乱れも無く、そして経文を唱える声にもずれはない。


「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界乃至無意識界 無無明亦無無明尽」


 軍人等は皆、肩に銃を担いでいた。一人一人の表情は、目深にかぶっている軍帽の所為で窺い知ることはできぬ。


 しかし口元には経文を唱える寸毫の間に、陰惨な笑みが浮かんでいることを見逃してはならぬ。


 ふと、先頭を行く軍人の顔が上がった。


 何かを行く手に見つけてもなお、行軍と経文には乱れは無い。


 わだかまる妖気が物質化し、妖を生み出す。


 全身に剛毛を生やした、獄卒の如き醜悪な面をした鬼。その巨躯は数メートルはあろうかという、筋骨隆々たる全裸を晒した鬼であった。


 血走った眼を軍人等に向け、にぃと唇をめくらせて笑う。何処に潜んでいたのか、まだこれだけの人間の新鮮な肉と魂を喰らう事ができる喜悦に、鬼は身を震わせた。


 それでもなお進軍を続ける軍人どもを威圧せんと、鬼は凄まじい咆哮を轟かせた。びりびりと大気を震撼させ、それを間近で聞いたなら鼓膜は一時的に麻痺するであろう程の音量。


 加えてその音には強烈な負の妖気がこめられており、よほど肝の据わった者でなければ容易に精神に乱れを生じさせ、恐慌状態に陥らせるだけの力があった。


「乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顚倒夢想」


 まるで聞こえていないのではあるまいかと思わせるほどに、鬼の咆哮による動揺は無かった。


 いや、実際に聞こえてなどおらぬのかも知れぬ。


 軍人等は微塵も歩幅を緩める事無く、みるみる鬼との距離を詰めていく。


 その異様な気配に、やっと鬼も気付いた。


 これは普通の人間ではない。何かが違う、と思われたその瞬間が、恐らくは鬼にとっての唯一の救いの間であったのだろう。


 しかしここで退くことを、鬼は選ばなかった。四肢の爪と強大な膂力を持って、こやつ等を血と臓物に塗れさせてやるといわんばかりに、突撃を開始する。


 だが、鬼の爪は軍人等に届くことは無かった。


 突如轟いた銃声は、狙い違わずに鬼の右目を潰した。身を襲う激痛に混乱をきたし、腐臭のする体液に濡れる顔面を押さえて苦悶する鬼に向け、容赦の無い銃弾が間断を置かずに放たれる。


 次なる銃弾は残る左眼を潰し、手首の骨を砕き、耳を削いだ。


 既に視覚を奪われた鬼は、そのときになってはじめて気付いた。


 この者らの背後に揺らめく、凄まじい妖気を宿した陽炎のような影に。視覚ではなく、妖の持つ感覚によってそれは捉えられ、鬼を威圧する。その間にも次々と発射される銃撃は鬼の肉を爆ぜさせ、骨を折り、臓腑を引き裂く。


「究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明咒 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰」


 銃声が止んだころには、そこに鬼の姿は無かった。


 大地を腐らせつつ、淀む染みとなった妖気の残滓。どこからともなく、鬼を滅し終えた軍人等の間から、鈴の音が響いた。


「南無、八幡大菩薩」


「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆呵」


 軍靴は止まることを知らず、その染みを踏み鳴らし、闇に消えていく。


 その彼方には、強力な神力結界によって守護された、皇城が息を潜めていた。

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