第二十三章第二節<追憶の狭間>

 旧本丸敷地内の中央気象台の屋上で、北斗は黒一色に染められた天を見上げていた。


 雲ひとつ無く、そして月や星の輝きすらない。まるで天を巨大な黒い布で覆い尽くしてしまっているかのように、色彩の揺らぎこそなく、全てが暗黒に飲まれている。


 かつての墨曜道における占術や祭りには、星の動きから吉凶を見る術があったと聞く。遠い過去、朝廷に仕える呪術師らが墨曜寮と呼ばれる地位にあったときから、いや大陸から五行思想が伝来されたときからかも知れぬ。


 稀代の墨曜師、安倍晴明が自家薬籠中にしていた泰山府君の祭りをはじめ、玄宮北極祭、鎮宅霊府神祭等は全て、星辰祭祀として秘術秘祭として受け継がれて来た。


 ならば、このように星が見えぬ半異界の地においても、祭りは呪力を持つのだろうか。


 いや、正確には北斗すら祭りの詳細は知らぬ。知っていたところで、いつ何時攻撃が開始されるか分からぬ状況では、とても祈念に集中することなどできはしない。


 このような時、伝説ともなった晴明なら、如何様に妖と異国の呪術師を撃退するのだろうか。幼少期から鬼を見、式を見、そして呪力で蛙を潰せるほどの術師なら。


 それに引き換え、自分の方術はどうだ。自分がいながら、三つの結界を破られてしまっていては、とてもではないが力を自負することなどできはしない。


 ここから彼方に見えるのは、闇。その中では妖が跋扈し、鬼が吠え、逃げ遅れた者の肉や臓腑を喰らい、魂を飲んでいるのだろう。


 ぐっと拳を握り締め、俯いたときであった。


 屋上へと続く階段を昇る足音が聞こえ、北斗は顔をそちらへと向ける。ややあって、夜風に髪を遊ばせつつゆったりと腕を組んだままの、綾瀬が姿をあらわした。


「よぉ」


 気さくな挨拶ではあったが、その雰囲気からして、此処に北斗がいることを求めて来たのではなさそうだ。


「どうしました?」


「見回りだよ……いくらしっかり固めてたって、あらかじめ中に賊が潜んでる可能性だってあるだろうが?」


 見れば、腰には非常時を想定して常に佩刀をしている。彼は彼なりに、術が使えぬからと言って部外者を決め込んでいるわけではなさそうだ。


「てめえこそこんなところで何してんだよ? 一応、終わってるんだろ?」


 八卦符と四方祭壇によって、偽の方位を設定する一連の儀式のことを指しているのだろうと思い、北斗は小さく頷く。


「星を見てるって訳でもなさそうだし……どうした」


「別に」


 北斗は、自分でも呆れるほどに素っ気無い返答をした。


 そんな反応をするつもりは無かった。しかし現実に口から出た言葉は、友人に対する言葉とは大きくかけ離れてしまっていた。


 その短い言葉でも、確実に綾瀬の心に楔を打ち込んでしまっていることは分かっていた。


 だが今の北斗には弁解の言葉を重ねることはできなかった。いっそ、その対応に綾瀬が声を荒げてくれたほうがよかったのに。


 悲しげな視線を向ける綾瀬に、北斗は目をぎゅっと閉じた。


「失礼します」


 先程よりもはっきりと、そしてやはり冷徹な拒絶の雰囲気を宿した言葉で、北斗は綾瀬の前を通り過ぎようとした。


 ここから階段のドアまで、たいした距離ではない。


 何故か意のままにならぬ言葉の響きに辟易し、北斗はこれ以上他人と言葉を交わすことが恐ろしかったのだ。


 一刻でも早く、一人になりたい。だがその想いがかなえられはしなかった。


 目の前を早足で歩き去ろうとする北斗の腕を、綾瀬の指はしっかりと掴んでいたのだ。


「北斗」


 ぐっと眉間に皺が寄る。


 だがそれを見せまいと顔を背けることは、更なる誤解を招きかねない。端正な顔を俯けたままの北斗に、綾瀬はまるで幼子に道理を説くような口調で話し掛けた。


「思いつめてんなら、吐き出しちまえ」


「一人にしてください」


 お願いします、と続ける前に声が震えた。


「泣き出す寸前のガキみてえな顔してんじゃねえか」


 無言の北斗に向かって、綾瀬はさらに続けた。




 泣き出す寸前の顔。


 そうかもしれない。


 少しずつ冷静さを取り戻す中で、北斗は深い追憶の中に身を投じていた。


 あれは確か、十にも満たぬ年の頃。来る日も来る日も続く、暦を読み、暗記し、そして数々の算術を繰り返すという修行に、幼い北斗は嫌気が差していた。


 土御門の秘術、それが万人の学ぶ知識ではないことは繰り返し、師から伝えられていた。幼くして霊視能力に長けた北斗を、肉親は晴明の生まれ変わりであると喜んだ。


 しかし、そんなことは北斗にはどうでもよかった。彼自身はそのような伝説の神童でも何でもない、ただの一人の男子であったのだから。


 ただ少しだけ、普通の人間にはないものを持って生まれたが故に、彼の人生は決定されていたのだ。


 よくある話のように、まだ幼かった北斗の意志とは無関係に。


 あるとき、たわめられていた枝が元通りになるように、北斗は行動に出た。


 師から与えられていた、門外不出とされていた暦書を、庭師が掃き集めた枯葉を燃やしていた炎の中に投げ込んだのだ。


 止める間も、制する者もなかった。彼の奇行に、庭師は調子の外れた楽器のような声を上げ、それで家の者らは慌てて駆けつけた。


 そのときには、既に書物は炎の中で影となり、崩れていた。


 事実を聞いた師は、その夜に北斗を学び部屋へと呼びつけた。


 奇行はずっと練られた策などではなく、まさに咄嗟の浅智慧であった。


 そのようなことをしても、叱責を受けるだけで、自らの運命から逃げられることなどありえぬ。時間がたつにつれてそうした事実が北斗にも理解できはじめ、そして師に呼ばれたときには恐怖のあまり口が聞けずにいた。


 板の間に正座をする北斗に、師は随分と長い間、一言も発することはなかった。


 無言の刻が、実際の時間にして四半時間ほど続いたときであった。


 北斗は、我が耳を疑ったのである。


 目の前で恐怖に身を固くする十の童に、師はおもむろに頭を下げたのであった。続く謝罪の言葉は、混乱する北斗の耳には入らなかった。どうしていいかわからず、泣き叫ぶ北斗の声を聞きつけた家人が部屋へと来るまで、そして北斗を部屋から連れ出すまで、師は面を上げようとはしなかった。


 あの時と同じだ、と北斗は考えていた。


 自分が何をすべきなのか、皆目見当がつかぬ恐ろしさ。次に踏み出す一歩が、まさに奈落へと我が身を導く契機になるやもしれぬ。


 あの夜、寒い板張りの間で師を前にした北斗が感じていた混乱と恐怖は、根源こそ違えど心に及ぼす影響は今と同じであった。


 師の本意は、いまだ伝えられてはおらぬ。しかし、今の北斗であれば理解できる。


 あの時、師は自分を学び徒としてではなく、一人の人間として扱ってくれていたのだ。運命とか宿命とか、都合のいい言葉でごまかして、今まで北斗に強いて来た諸々のことを、師は謝罪したのだ。


 そうしたことを考えてもらえただけ、北斗は逆に幸運だったのだ。


「てめえ一人で戦ったところで、かなう相手じゃなかったんだよ」


 まるで北斗の胸中を察したように、綾瀬が呟いた。


「命あってのなんとやら、っていうじゃねえか。ヤツらの術喰らっといて無傷ってな、それだけてめえの結界だって捨てたモンじゃねえんだろ?」


 北斗の様子が戻ってきたことを感じ、綾瀬は腕を掴む指にこめた力を緩めた。戒めから解かれた罪人のように、北斗の腕はだらりとなる。


「妙なこと考えてる暇があるなら少しでも足掻いてみろよ。いつでも相手になってやるぜ」


 綾瀬は北斗の背中を一度力強く叩くと、元来た道を戻っていった。


 再び一人残された北斗が、暗黒の天を仰いだとき。


 



 午後九時を知らせる鐘の音が、どこからともなく、聞こえてきた。

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