間章ⅩⅩⅡ<玄武>

 風音が強い。


 世界から色彩というものが消滅し、光の加減だけで黒と白、そのグラデーションだけの空間ができるとしたら、それはまさに、今のこの場所である。黒いキャンバスに、まるでざらついた布で擦って描いたような絵画にも似た光景が、目の前に広がっていた。


 足下を見下ろせば、正方形の石が舗装されたように敷き詰められている。靴の底には、固い感触がある。見上げれば、暗黒の空に伸び上がっている幾筋にも続く円柱が並ぶ廊下がある。


 柱の先には天井は無く、虚空が広がっている。


 風音はすれど、躰に感じる風圧は無い。視界に映る全ての物体の輪郭は明瞭ではなく、引っ掻いたような雑多な線が幾重にも重なっているだけだ。


 ここは、世界には存在せぬ場所。正確に言うならば、物質世界アッシャーには、という意味であるが。


 虚空神殿テンプルム・スペリオール。魔術師等の精神によって干渉し、固定化され、投射される場所。


 そこには、三人の人影があった。


 ルスティアラ、ユリシーズ、そしてサミュエル。


 水、火、風を支配するエノク術師が、同一の虚空神殿に干渉している。そして、今、四人目の魔術師が姿をあらわした。


 


 誠十朗は見た事も無い光景に、しばし呆然と立ち尽くしていた。


 道教における観想の流儀だけに従い、精神をカバラ魔術師の規律のままに投射した結果、そこは誠十朗がまったく知らぬ精神空間と化していたのだ。


「揃ったのね」


 女の声がする。


 三人のエノク術師と道士が、一様に声に反応する。


「ここに来るのは初めてでしょう……秩序と様式が違うだけで、後はあなたの学んだ呪術と変わりは無いわ」


 それには答えず、誠十朗はエフィリムの声の位置を探る。


「話を聞こう」


「今夜零時、私たちは皇城を滅ぼします」


 その情報は、既に彼らにも伝えてある。


「そして、同時に……アリシア様が、北へ向かわれました」


「何をなさっているのだ」


 腕を組んだままのユリシーズが、髭に覆われた唇を動かすことなく、低く呟く。


「最後の結界……北の玄武を、破壊しに」


 エフィリムの言葉に、三人の表情が驚愕に変わる。


 最後の結界を崩せば、恐らくは帝都の霊的復興は事実上不可能になる。たとえ凄まじき戦乱がこの地を襲ったとしても、先達が長い時間をかけて重ねて来た結界を全て剥ぎ取れば、霊的位相は最悪なものとなるからだ。


 そして、アリシアの命令により、最後の結界の場所を判別したのもまた、誠十朗なのだった。


 北の玄武。これの位置関係は、その他の三つよりもいささか特殊なものであった。


 伝承では、瑿鬥の玄武は霊峰富士。


 しかし地図を一度でも見たものであるならば、富士が瑿鬥の北になど存在せぬことは一目瞭然。浅草寺と寛永寺の鬼門守護説よりも、それは一片の事実をも含まぬ、低俗なものであったはずであった。


 だが、確かに瑿鬥の北の結界に力を注いでいたのは富士山なのであった。


 皇城を中継地点として、霊峰に宿る生命力の象徴たる木乃花咲耶媛を祭神とした、富士浅間大社。両者の距離と同じだけを北に向けると、そこには栃木にある羽黒神社へと接続される。


 かつて、瑿鬥城の北にあった神田山の延長線上にあるこの神社は、富士浅間神社からの山の霊気を受け継ぎ、そしてかつては神田山を北の玄武として見立て、現在は神田山に代わる結界としての役割をもつに至る場所なのだ。


「なるほど」


 最後の結界を破壊し、そして帝都の中心にある霊気の源を断つ。行き場を失った霊気は、糸が切れた凧のように迷走を開始する。


「それを、同時に行おうというわけか」


「ええ……それには、我等とレオ、アレクセイ、シャトーで、絶対に皇城を破壊しなければならないわ」


 そのための、作戦を練るというのか。


「いや」


 誠十朗は、エフィリムの言葉を半ばで遮り、否定する。その反応に、サミュエルが声を上げた。


「お前、今更になって抜けようとかって考えてないだろうな?」


 暴言を吐くサミュエルを、誠十朗はまるで邪眼の如き眼力を宿した視線で威圧し、そして少ししてから低く付け足す。


「軍勢は我等だけではない。宿曜の星によって、羅睺らごうの大凶宮に集う者らが、我等と志を同じくするべく、集まるはず」


 それが何を指すのか、西洋術師らは分からぬまま。知る者は、灼熱の横濱の夜に、誠十朗に密かな依頼を持ちかけたアレクセイのみであった。


 虚空神殿における、術師会合が行われたのは、九月十八日の午後三時過ぎ。


 かくして数時間後に幕を開ける、皇城を中心とした呪術大戦は、時の歯車にしっかりと噛みあい、組み込まれていったのであった。

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