第二十二章第三節<用心棒>
天沼八幡より、舞の神通力によって帝都に帰還を果たした沙嶺らを出迎えたのは、神祇調守護の任の責を負う本居紀靖であった。
老齢の身ながら、沙嶺らは一目でその男が持つ呪力の強大さを見抜いていた。
世襲による地位の継承などではない、厳然たる実力主義によってこの地位を得た男の眼。それは、形式的な任命などでは決してない、天皇陛下を守るという職務の持つ責任の大きさを感じさせずにはいられなかった。
肩書きを誇るでも、また俸給を増やす為のものでもない。
それは如何なる者でも務まる職務ではないのだ。寄る年波に躰の衰えは隠すことなど出来よう筈もなく、紀靖は間違いもなく老齢であることは容易に見て取れる。
しかし、同時に相貌に満ちた精気はどうしたことか。肉体の衰えに反比例し、この男の中では意志の力が研ぎ澄まされ、蓄えられ、そして充満しているようである。
このような者が、まだ帝都に……いや日本にいたとは。
急速な近代化の影では、いまだ前時代的と言われつつも紛れもない呪法の力が、国家の中枢には息衝いていたのだ。
そして、そうまでして守らねばならぬ天皇陛下の持つ影響力とは、国の頂点に位置する者の持つ精神的なものだけではないだろう。
数人の被害状況の報告を受け、そして生き残った者等の手当てを済ませ。無事な者も、また宮中それぞれの職務へと散っていったあと、梓を筆頭とした一行と紀靖は、白鳥濠に面した庭に残された。
「まず、主らには礼を言うべきだろうな」
今やこの世界において、人間同士の権力や地位など生き残る為には何の役にも立たぬ。何処の馬の骨とも知れぬ呪術師らだとしても、そこには降りかかる火の粉を払いのける確かな力がある。
その力が梓を救い、禰宜らの全滅を避け、そして皇城を守る結界が破られるのを防いだ。
もしあのまま、仲間の血の穢れを身につけたまま、狂乱した禰宜の一人が皇城へと続く門を走りぬけでもしたならば、広大な敷地を守るために張り巡らされた結界は失われていたであろう。糸のように頼りなく、しかし確実に妖らの目を眩ましている結界が破られたならば、恐らくは今ごろは最悪の事態となっていたのかも知れぬ。
しかし、正直なところ、紀靖はこの者らの処遇に困惑していた。
呪力にものを言わせる風来坊ならば、幾許かの謝礼を掴ませたあとは放り出すのが最善の策であろう。ここは民衆の駆け込み寺ではない。現に妖が帝都に膨れ上がったときも、門を叩く民衆の前でそれが開かれることはなかった。
噎せかえる程の血臭と断末魔の悲鳴とを間近で耳にしながら、彼らは門を開けるわけにはいかなかったのだ。
その奥に守っている者を一片でも知る者ならば、恐らくは結論は同じ筈。
だが、この者たちは何者か。
文字通りの霊的な弱肉強食の環境の中で、無傷とはいえぬまでも疲弊した様子も見せず、それぞれの霊能と生存技量によって命を繋いで来たものたち。
沙嶺、宝慈、圭太郎の纏う法衣と錫杖は間違いなく曼華経僧のもの。
紀靖が次の言葉を慎重に選びつつあるとき、であった。
おもむろに北斗が半歩前に進み出、慇懃な礼ののちに口を開く。
「はばかりながら申し上げます。恐らく間もなく、西洋術師らは霊的な攻撃を、この皇城へと仕掛けてくるものと思われます」
重く垂れ下がった、紀靖の瞼がぴくりと動いた。
「今であれば妖の目を逸らすことは出来ても、人を相手にここの結界は紙同然……何卒、御一考の程を」
「名は何と言う」
「鳴山北斗、と申します」
蛇の道は蛇。その名が土御門の秘儀を継いだ、ただ一人の男の名であることくらいは、紀靖とて耳にした事がある。
しかし。
「我等には我等の策がある。土御門の小僧が、差し出た口を叩くな」
「祭主!」
背を向ける紀靖に、梓が声を放つ。
「のちほど褒美を取らせよう。その後は、早々に立ち去るがいい」
けんもほろろに拒絶する紀靖の背に投げかける言葉を持つ者は、誰もおらぬ。
このまま手をこまねいていては、この地も遠からず異界に飲まれる。西洋術師の持つ強大な魔力をその身によって実感している沙嶺らには、その光景がありありと見て取れた。
濠を右手に、ゆっくりとその場を後にする紀靖を、ただ見ているしかできぬ者らは、そのとき聞き覚えのある声を耳にした。
「んー……その人たちは、祭主さんが心配するような人たちじゃないと思うんだけどなぁ」
間延びのした声。
その声に最初に反応したのは、綾瀬であった。夜闇の中でもすぐに分かる、紅蓮の着流し。
「光照か!?」
一見すれば、艶やかな長い黒髪は女のそれのようでもあったが。腕を組んだまま、まるで吉原を散歩でもしているかのように悠然と歩く高坂光照は、綾瀬に微笑んで手を振る。
「やあ、元気そうだね」
「やぁ、って……なんでてめえがここにいるんだよ!」
「まあまあ」
光照は手をひらひらと振って綾瀬を制すると、紀靖に向き直った。
「どうだろう、祭主さん、ここはボクの顔に免じて、彼らの意見も聞いてくれないかな」
苦虫を噛み潰したような顔をして、紀靖はじっと光照を睨んでいる。
ここに光照がいる経緯も気になるが、彼であっても神道の最高責任者を説得できるのだろうか。
通常、祭主という人物は伊勢神宮において全ての祭事を司っている。この緊急時に皇城に来ているとはいえ、その地位の高さは何にも増して抜きん出ているはずだ。
固唾を飲んで、その交渉を見守る視線の中で。
紀靖はややあって、視線を伏せた。
「お前がそこまで言うのならば……仕方ない」
何より驚いたのは北斗であった。
土御門という名前ですら説得できなかった相手が、ただの遊郭の用心棒の言葉を飲むとは。それは土御門、そして墨曜道が軽視されたという結果ではないだろう。自分には持ち得ない何かを、あの光照という男は宿しているのだ。
それが何であるのか、気にならぬといえば嘘になる。しかしそれを論じ、思考を巡らせるときは今ではない。
「ありがとうね」
少年のような、屈託のない笑顔で礼を述べる光照から顔を逸らし、紀靖は梓と一行に振り向いた。
「今から宮内庁庁舎の会議室に来い。梓、案内を頼む」
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