第二十二章第二節<魔都、東享>

 何処からともなく、低くうねる年老いた男の声が聞こえてくる。


 何かを唱えているようにも、苦悶の呻きを上げているようにも取れる。


 それも、一人のものではない。ともすれば数十人の声が一斉に闇の中から、こちらに向けて響いてくるのである。


 血眼になった、怒りと憎しみをこめた眼差しをもって無数の者にじっと凝視されているような気配が満ちている。


 そのような空間にただ一人残されたならば、胆力のある者とて正気ではいられぬであろう空気である。


 帝都を包んでいる闇は、まさしくそうした邪念を帯びた妖によるものであった。


 天空は時刻に関わらず日も差さぬ暗黒。月や星の光すらなく、人の居ぬ場所には光というものすら存在せぬ。時折吹き付けてくる、不気味な音を立てる風にも、むっとする血臭が含まれている。


 今こうしている間にも、どこかで妖鬼や邪鬼が人を貪り食らっているのだろう。そんな地獄絵図と化した街の中で、ただ一つ残っている場所があった。


 麹町区、皇城。




「高天原に神留坐す皇が親神漏岐命神漏美命以ちて八百万の神等を神集へに集へ賜い神議りに議り賜ひて我が皇御孫命は豊葦原水穂国を安国と平らけく知食せと……」


 衣冠束帯に身を包んだ禰宜らが、六月晦大祓の祝詞を一心不乱に奏上している。数人がかりで唱えられている祝詞により、その一帯は事実上妖すら侵入できぬ清浄な空間と化していた。


 その中より、さらに幾人かの禰宜に囲まれる形で表着と袴を身につけた梓が、鋭い視線を周囲の闇に向けていた。


 皇城の全体は、天皇を守護する神祇調師らによって結界が張られている。そのために力の強い妖ら以外は近寄ることも出来ぬ場所となってはいたが、既にここは人の理論が通ずる世界ではなくなっている。


 結界が内側からだけでは不完全な為に、こうして特に祓の力に抜きん出た者たちが団結し、皇城周辺の浄化を行っていたのであった。


 梓もまた、その任を受けた者ではあったが、運悪く妖の一団に遭遇してしまっていたのだ。すぐ背後にある田安門より駆け込めば、恐らくはもっとも外周部に位置する結界が妖の侵入を阻んでくれる。しかし自分たちが通過したことによって、皇城を包む結界が揺らぐことがあっては、軽率な行動を取るわけには行かぬ。


 妖らを撃退し、そして然るべき手順によって結界の中へと戻らねば、その損失は計り知れぬ。


 梓の手には弓と鏑矢が握られていた。射干玉の瞳で闇を見据えていた梓は、おもむろに弓に矢を番え、一点に神経を集中させる。


 ぎりぎりと弓を引き絞り、そして番えたままの矢に唇を寄せ、小さく呟いた。


「祓ひ立つ 此処も高天の原なれば 集まり賜え 四方の神等」


 一点とは、即ち頭上。妖気を裂く音と共に飛来する弓は光を宿し、円陣を組む禰宜らの外側に光の雨を降らせる。


 松明によって照らされた範囲の外にも及ぶその祓魔の呪法をその身に受けた妖は身を捩りながら絶命し、また光を浴びただけのものも悲鳴を上げつつ背後の闇へと退く。


「春日宮司」


 禰宜の一人に名を呼ばれ、梓は次なる矢を番えたままの格好で首だけで振り向く。


「この攻撃は最早異常です。一度お戻りになって、再度……」


「何を言うか」


 ぎりりと絞られ、弦が軋みを上げる。


「お前は、私の顔に泥を塗る気か」


「いえ、決してそのような」


 言葉を継ぐ暇も与えず、梓は禰宜から視線を外す。


「しかし、このままではいずれ」


「祓ひ立つ 此処も高天の原なれば 集まり賜え 四方の神等」


 今度はやや斜めに向けて矢を放つ。光の降り注ぐ地点が僅かにずれ、靖国神社の参道へと続く坂を照らし出す。


 闇を抱くぎりぎりの線まで控えていた妖が、その攻撃によってさらに退く。


 その道は、本来であれば今の時刻なら、坂の上にある男子学校へと向かう学生等が制服に身を包んで闊歩していることであっただろう。


 しかし学び舎に続く道にはそのような面影は微塵もない。


 道の続く先には、やはり闇。そして恐らくは、魍魎の住まう煉獄なのだ。


 闇の向こうには、梓が考えていた以上の数の魔物がひしめいている。その数をもって、いまだ動かぬのは祝詞による結界を恐れてのことなのだろう。


 こちらの呪力が弱まったときを見計らい、突撃を受けたならば、ひとたまりもないのはこちらの方だ。


 かといって、不用意に退却の素振りを見せればそれは相手に追撃の隙を与えることにもなる。


 どうすればいいのだ。このまま、皇城へと戻るべきなのだろうか。


 だがそれならば、恐らくは無傷とはいえまい。


 数人の犠牲をもって他の安全を守るか。


 ぐっと弓を握る指に力をこめたとき。


「春日宮司ッ!」


 引き攣った声で名を呼ばれる。


 振り向く時間さえなく、乱暴な力で背中を突き飛ばされる。よもやそのようなことをされるとは思わず、地面に両手を突く格好になったまま、背後の様子を探ろうと顔を向けたそのとき。


 梓の顔に、暖かい飛沫が散った。


 自分を突き飛ばしたのであろう禰宜の青年には、首がなかった。ややあって、首なしの直立した躰から間欠泉のように鮮血が吹き上がる。


 そのまま周囲を生温い液体で染め上げ、青年はどうと倒れた。


 松明の光が届く輪の中に、何かがいる。


 咄嗟にその姿を認め、頭を巡らせる。


 口に身の丈を越える日本刀を咥えた、猿の妖が四肢をついてこちらを向いていた。


 今しがたの斬撃は、あれによるものか。刃にはねっとりとした血糊がこびりついており、切っ先からは糸を引いて地を汚す。


 動揺が拡散していくのが、手に取るように分かる。


 あの一撃は禰宜一人を失ったというだけでなく、こちらの結界の強度を上回る妖が入るという事実を改めて知ることになったのだ。


 祝詞が切れ、途絶える。空間に満ちていた清浄な神気が、見る間に妖気に飲まれていく。


 結界が消える。


 ぞわり、と闇の中の妖が膨れ上がるように迫る。


 正気を保てなくなった者の悲鳴。奥歯が砕けるかと思えるほどに噛み締めた時であった。





 天空から鮮烈な光が辺りを照らしたのだ。


 光の中で、妖らは驚くものの、苦悶する様子はない。一瞬の動きの遅滞を残し、妖の猿はこちらへと向かってくる。


 もっとも皇城から離れていた禰宜の躰が袈裟懸けに切り裂かれ、二人分の血を吸った妖刀がこちらに迫る。


 蟷螂の孵化のように、妖を孕んだ闇が爆ぜると思えた瞬間。


南莫なうまく 三曼多さまんだ 縛曰羅赦ばさらだん かん!」


 叩きつけられるような語気と共に、不動明王呪が辺りの空気を震撼させる。


 空を裂く音と共に、猿の妖がびくりと躰を痙攣させる。見れば、臓腑を喰らわんと開かれた口の中から、こちらに鋭い切っ先を向けたままの独鈷杵が突き立っていた。


 それでもなお、よろめきながらこちらに向かわんとする猿は、しかし三歩目を踏み出すよりも早く、銃声に頭を打ち砕かれた。


 何が起きたのか、まだ分からずにいる梓。


 思わぬ妨害に二の足を踏む妖を尻目に、梓の元へと駆けつける足音があった。


 曼華経僧の法衣。


「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前ッ!」


 裂帛の気合と共に九字を切り、消滅寸前であった結界に再び力を注ぐ。


 背を合わせ、錫杖を突き出して業滅の構えを取る二人。


「お前たちは!」


 見知った顔に、梓が安堵の息を吐く。


「危ないところでしたね」


 梓の背中をトンと叩く拳があった。


「道は俺等が確保するから……さっさとずらかろうぜ」

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