間章ⅩⅩⅠ<写本>

 四色の鳥居に囲まれた、泉のような空間。


 互いを繋いでいた注連縄はいつしか断絶し、水面には濡れた紙垂かみしでが揺れているのみである。


 かつて、流源が国津神と言葉を交わした空間には、今は誰もおらぬ。卵上の浮遊する座椅子も、桃色に似た色彩を常に変化し続ける奇妙な宝珠も、そこにはない。


 その空間に、紅蓮の色が揺れた。


 姿を現したのは、天沼八幡で沙嶺らに帝都の現状を伝えた、あの鬼姫。


 妖が入り込めたということは、何らかの理由により聖域が破壊されたことによるものなのか。


 いや、見よ。


 天沼八幡の破壊に呼応するかのように、東西南の鳥居のそれぞれの支柱には亀裂が走っているではないか。四つのうち、東と南が破壊されているうちは、まだ向かいの聖域に支えられ、決定的な崩壊は起こりえなかったのであろう。


 しかし今や、過半数を超える三つが破壊され、聖域は結界を維持し続けることができなくなったというわけか。


 遥か頭上から舞い降りた鬼姫は、裸足の爪先を微かに水面に触れさせるところで、動きを止めた。桜色の足の指の先が僅かに浸され、ややあって波紋が広がっていく。


 鬼姫、舞は躰の動きが止まったことを確かめると、静かに瞼を開いた。そうして周囲を緩やかに睥睨すると、そこが無人であり如何なる気配をも感じさせないことに気付き、長い溜め息を吐く。


 遠く祝詞を唱えているような、うねる詠唱が空間に響いている。


 そのとき。舞の足下から拡散する波紋が、全く別の揺れ方に煽られたかのように、真円がひずみを見せる。


 はっとなる舞。


「鬼の眷属が……この地に何の用がある?」


 ごぼり。水が膨れ上がり、泡立つ。


 振り向く舞の視線の先で、水の中から現れたのは、国津神ではなく流源。


 今しがたまで水の中に潜んでいたとは考えられぬほど、流源を包む毛布には濡れた痕跡が完璧なまでにない。


「八百万の神々に妖か……この地はまさに異神の住まう地よの」


「あなたは?」


「人にものを尋ねるならば、先に名乗るのが礼儀ぞ」


 舞は長い睫毛を伏せ、愁いを帯びた顔を垂れた。


「私は坂上田村麻呂を父、鈴鹿御前を母とする鬼……親より与えられた名は正林、人の世であれば舞と申します」


 親指の爪が、水に浸る。


「無礼をお許しください、ご老体」


 舞の言葉に流源は頷くと、皺の刻まれた口を開いた。


「わしは流源。この地に何やら乱世の兆しありと見て、駆けつけたお節介者よ」


 名乗り、流源は笑ってみせる。


「して、妖の姫がここを訪れたのは、何用か」


「帝都を包む妖気と瘴気、そして甦りつつある各地の怨霊。このままでは、神国日本は近い将来、必ずや魔の支配する地となりましょう」


「そうであろうな」


 流源が頷く。


「人の手をもってすれば……そのような恐ろしい所業が可能なのでありましょうか?それとも、この戦乱には何か別の要因があるのではと考えて……」


「人にあらず」


 流源は言葉少なに、舞の発言を否定する。


「……え?」


「日本の霊的国防を破らんとする者は人にあらず、武蔵野の地霊の力に宿った写本が全ての元凶」


 写本という、聞き慣れぬ言葉に舞は喉をつまらせる。


 だが、その言葉からはとてつもなく不吉な感覚を受ける。この老人が何かを知っていることは間違いない。


「この国はおよそ霊的に見れば凄まじき異形の塊よ。このような均衡を保っていられたこと自体が、まさに奇跡としか言いようがない……八百万の神とはすなわち神の存在を希薄にし、その境界線を曖昧にする、しかしこの地では神は依然として神の地位にある」


 流源は一度言葉を切って、舞をひたと見据えた。


「それが可能であるのは、人と神との関係を規定せぬことが原因であろうな。人が神になり、また神が人となる。その螺旋はいつ果てることなく、太古より未来へと受け継がれ、続いておる」


 その思想は、一神教ではまず考えられぬことであった。唯一神、全能神は絶対不可侵なものであり、それゆえ神に由来する諸物は神に等しき価値を持つ。


「写本はそこに目をつけたのよ」


 すなわち、絶対的な規定がないのは暗黙の了解という名の不可視の法が存在するということ。ならばこの地の神の盲点をつき、人から生み出される怨霊の力を持ってすれば、神の地、高天原に混乱を生じせしめることが出来よう。


 さらに高天原に住まう神々の霊性は極めて不安定、かつ多種多様に分岐している。


 ということは。


「分かるか、鬼の姫」


 流源はそれまでとはがらりと眼力を変え、鋭い光を放つ瞳を向ける。


「この地の霊位相には、八百万の神を支え、霊験を顕す巨大で膨大な力の泉があるということになる。主ら妖も、その泉より絶える事無く生み出された存在であろう」


 その泉こそが、日本における霊的不可侵な地。人々の思想と信仰の根底にある、意識と無意識の源。


「写本は、その泉を奪おうとしておるのよ」


「教えてください、ご老体」


 流源に向け、舞は詰め寄った。


「写本とは何なのですか? それが、我等安住の地を汚す、異国の言葉を持つ呪術師とどのような関係があるというのですか?」


 その問いに、流源が答えようとしたときであった。


 祝詞が途切れ、かわりに靴音が虚空に響く。舞と流源はほぼ同時に、第三者の気配を感じ取っていた。


「それは、あの男に問うが宜しかろう」


 流源は音が聞こえた方角に顔を向け、誰にともなく言い放った。闇の中に、赤い瞳と白く染め抜いた晴明桔梗紋が浮かぶ。


「八咫妙見、凄まじき力を持つ、悲しき時渡りの男」


 陸軍の軍服を着た痩身の男が、水面を靴音を立てながら歩いてくる。


「それとも……壬生みぶ九朗くろうの名で呼んだほうが宜しいか?」

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