第二十一章第二節<神通力>

 はっと顔を挙げる沙嶺に続き、その場にいた他の者等もみな、空気の変調に気付いたようであった。


 明らかに、舞のものとは別種の妖の気配がする。


 雨に濡れた匂いの中、がしゃりと金属が重々しく鳴る音が響いた。無言で腰を浮かせる宝慈に、舞は制止の声をかける。


「待ってください」


 前に起こした躰が、がくんと止まる。


「あれは……私を護ってくれている、武者です」


 武者だと? 沙嶺はその言葉を耳にしたとき、自分自身でもはっきりと分かるほどに躰を震えさせた。


 まざまざと思い出される、あの光景。


 東享へと発つことが決定したあの日の夜、武州御嶽にあった寺で最後の夜を過ごした刻。宝慈と共に、未来への不安を打ち明けあい、そして互いの結束を確かめ合ったあとに、沙嶺の前に姿を現したもの。


 胸を貫かれるような痛みを感じさせながら、短い言葉を残したのは、確か武者の姿をしたものではなかったか。


 がしゃり、と重く濡れた金属の板が鳴る音が聞こえる。それは降りしきる雨の中から、ゆっくりとこちらへと歩いてくる具足の音であった。


 そして、武者は姿を現した。


 見るからに古く、そして普通なら用を成さぬほどに朽ちかけた甲冑武者。もし武具を手掛ける者が見れば、その様式は平安後期からもっぱら製造が始まったとされる、大鎧と呼ばれる類のものであることがわかっただろう。


 しかしその様子はあまりに凄まじかった。


 兜の頂点付近の八幡座はちまんざと呼ばれる金属板は割れ、そして大きくめくれあがった吹返ふきかえしに張られた生地は茶色く変色している。かつては大袖を美しく彩っていた紅の糸も今では色褪せ、ほころびが目立つ。胸板に重ねて施された鳩尾板きゅうびいた梅壇板せんだんのいたには、黒い焦げ跡と共に微小な穴がいくつも穿たれているのは、銃火器によるものか。


 およそ実戦に赴く際には使い物にならぬであろうと思われる甲冑であったが、それだけではない気が宿っているかのようであった。


「この者は、かつては人でした。しかし、私の正体に気付いた人間らが殺そうと押しかけて来たとき、この者は私を連れて逃げてくれたのです」


 鬼であっても、姫を守る。


 契約にも似た強靭な意志は、恐らくは姫を追ってから助け続ける間に力尽きてもなお、その者の意志が宿り続け、妖となったのであろう。その証拠に、眉庇の下には縦に大きな亀裂の入った鬼の面が嵌め込まれていたが、その奥にはただ虚空があるのみであった。


 武者は雨が降りしきる中、ただじっと立ち尽くしていた。


 まるで主と同席すること自体が礼を欠く行為に他ならぬと言わんばかりに、あたかも忠義心のある犬のように、静かに直立の姿勢を崩さぬ。


「山を追われ、私らは各地を点々としました。しかし、何処に行こうと人は私が妖と分かるや否や、それまでの温和な表情を一変させ、僧や墨曜師らを呼んで祈祷させる……その生活の末に、私は自ら眠り続けることで、己の躰から立ち上る妖の霊気を抑えたのです」


 眠れば気配は弱くなる。しかし動くことは出来ぬ。


 さらに眠ったままであれば、万が一発見されたときに打つ手立てがない。


 身を守るためには、舞だけではどうしようもなかったのだ。


 献身的な武者の細やかな心遣いと、妖の力がなくては。


「あの者を見た人間は、人を超えた太刀の腕と鬼の面に怯え慄き、鬼哭(きこく)と呼びました」


 鬼哭きの面故の、恐怖と呪詛に満ちた名。


 そして妖となった彼は、いつしか己の名を失っていく。


 姫を守り助ける、その念だけが彼を現世へと繋ぎ止め、その他の一切を忘却の彼方へと追いやっていく。呪わしき名であってもなお、それだけが己を表す言葉であるのなら。


「……鬼哭」


 ゆっくりと沙嶺はその名を口にしてみた。


 あの夜、自分に助けを求めたのは、彼であったのか。しかし何故、鬼哭は自分にそれを伝えたかったのであろうか。こうなることを知っていたのだとしたら、この場にいる全員、いや少なくとも数名が知っていなくては役には立たぬ。


「あの者も、これより戦いに加わっていただけるのですね」


「無論です」


 舞は首肯する。


「現在、帝都の中で瘴気の影響を受けていない地域は多くありません。無事であった寺社仏閣もまた、圧倒的な妖力の前に、次々と聖域が失われ、混沌の渦の中へと飲み込まれています」


「……皇城も、ですか」


 ややあって、低い声で北斗が尋ねる。


 その声は言葉を交わす声にしてはあまりに低く、そして垂れ込める絶望という名の暗雲によって割れていた。


 哀しげに顔を伏せるその横顔から問いの結果を、北斗は半ば予想していた。


 しかし、舞は顔を上げたのだ。


「いいえ」


 短いがその否言は、はっきりと皆の心に光明を導く。


「現在、皇城のみが瘴気を退けることに成功しております。しかし、その中にいる呪術師たちや侍たちは次第に疲労の色を濃くしており、対する妖はまるで無尽蔵であるかのごとく、雲霞のように押し寄せています」


「……持ち堪えられているのは、相手が妖だから、ですね」


 北斗はそう呟き、頷いた。


 我等に仇名す者らは、まだいるのだ。四方結界を失わせれば、その中心にあるのは紛れもなく皇城。日本の霊的中枢であり、現人神である天皇を守る空間を滅することを、西洋術師らは狙っていたのではなかったか。


 天沼八幡を破り、そして帝都が瘴気吹き荒れる魔都となったのならば、恐らく残る北の結界を破壊するよりも早く、皇城を狙うだろう。桁外れの霊力を持つあの集団が皇城に向けて攻め入ったとすれば、とても太刀打ちが出来るとは考えにくい。


 そして、それは梓の死をも意味するのだ。


「だったらよ、おい、急ごうぜ」


 傍らに立てた太刀をむんずと掴むと、綾瀬は慌しく立ち上がった。


「さっき、お狐さんにもらったのはもうねえんだぜ? こっから日本橋までどんだけかかると思ってんだ?」


「案ずるには及びません」


 舞はそう言うが早いか、静かに立ち上がった。


 途端、それまで土砂降りの為に払暁の光すら差し込まぬ外界から、目を射るような光が次々に堂内へと溢れかえってくる。


 その現象に、誰もが外に回りこみ、そして唖然となった。土砂降りの境内だった場所には、直視することも困難なほどの光を纏った一台の牛車が忽然と出現していたのだ。さらには、車の周囲には美しい女たちがこちらを向いて微笑んでいるではないか。


 光が強い為に細部までは見て取ることは出来ないが、その車は今の時代からすればいささか古風とも言える造りであった。


 宝慈の肩を借り、続いて姿を現した沙嶺も、その光だけは感じ取れるらしく、手を顔に翳す。


「母より継ぎし神通力の一つでございます……こちらに乗っていただければ、日が昇るよりも早く、皆様を帝都へお連れすることが出来ましょう」


 かつて、坂上田村麻呂が鈴鹿御前を完全には信用しきってはいなかったとき、御前はこの神通力で光輪車という車を呼び、内裏まで空を一息で駆けたと伝説には残されている。


 それが、まさにこれか。


 今まで伝説の中でしか見ることが出来ず、古代の人々の想像力の賜物であったと思われていたものを目の前にし、冷静でいられる者などいようはずがない。


「ささ、早く」


 女官等に促され、一人また一人と車に乗り込んでいく。


 そして残るは沙嶺と宝慈、そして鬼哭だけとなったとき。歩き出そうとしていた沙嶺は、ふと宝慈を止め、舞に振り向いた。


「一つ、伺いたいことがあるのだが」


「なんなりと」


 恭しく頭を下げる舞。


「あの夏の夜……私を浅草寺に呼んだのは、あなたか」


 目の見えぬ私に、玉響の幻を心に見せてくれたのは、鬼の妖力によるものだったのか。


「あなたの瞳は、盲故に見えぬのではありません」


 予想だにしていなかった奇妙な答えに、沙嶺はなおも問いかけようとした。


「あなたが、私の目がどうして見えぬか……」


 だが、その問いは最後まで告げることは出来なかった。


「もうすぐ夜が明けます。そうすれば、皇城はまもなく戦場となりましょう」


 唇を噛み、沙嶺は言葉を懸命に飲み下す。


 聞きたい事は山ほどにある。だが、今はその全てを問う時間はない。


「行こう、沙嶺」


 背を押され、沙嶺はゆっくりと歩き始めた。

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