第二十一章第一節<鬼姫>

 雨足は次第に収まりつつあった。


 西洋術師らの頭目の施行した雷撃魔術によって発生した雷雲がもたらした雨は、どうやら魔力が消えやるにつれて小康状態になってきているようであった。鬱蒼と茂る森の中ですら、一端は激しく降り注いだ雨露に濡れなかった格好な場所などあるはずもなく、沙嶺らは仕方なく焼け残った堂の中でも比較的無事な一角を探し、車座になって座っていた。


 思い思いに座る中央ではぱちぱちと焚き火が揺れ、枝が爆ぜる乾いた音が時折耳を打つ。あと数刻もすれば夜が明けようが、分厚く垂れこめた雨雲のせいで空の色を窺い知ることも出来ぬ。


 気を失っていた北斗、綾瀬、雅らもその輪には加わってはいたが、皆一様に頭を垂れたまま何も語らぬ。


 あの女の不可思議な術で運ばれて来た綾瀬と雅には、これといった外傷は無かった。命は助けてやるという言葉には偽りは無かったらしく、何か術をかけられた様子も無い。


 綾瀬の胸元には西洋術師との戦闘で受けた大きな痣があることを除いて、二人ともに五体は健在であった。


 ただ、交戦中に凄まじい気配に圧倒され、成す術も無く昏倒してしまったという共通点は、今になってさらにあの女の持つ力の異質さと強大さを思い知るには充分過ぎるほどであった。


 そして、輪の中にはあの女もいた。


 意識を取り戻した北斗、綾瀬は無論のこと、雅ですらもこの女が人ではないことはすぐに分かった。その身に纏わりつく瘴気もまた、人外の妖であろうことを物語ってはいたが、女の瞳には殺意と敵意はなかった。


 巧妙な妖が人に付け入る隙を見せんと宿す、あの媚びるような光も見受けられぬ。


 正体を掴めぬ顔をする皆に、女は舞と名乗った。


 どこにでもありがちなその名に、北斗が眉をひそめた時であった。


「人の世であれば……正林しょうりんという名で知る者もいるでしょう」


 その名を聞き、反応したのは綾瀬であった。驚きに大きく見開いた目でまじまじと舞を見つめ、そしてややあってから溜めていた息を吐く。


「じゃあ、あんたは……鬼なんだな」


「はい」


 舞はそっと頭を下げる。


 正林とは刈田丸利光の嫡男である坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろと、天竺大四天魔王の娘、鈴鹿御前との間に出来た娘の名である。童子斬どうじぎりの発祥とも言える初代征夷大将軍の血と、奥州を支配していた鬼の眷属との交わりの果てにもうけられた子とは。


 その壮絶な美貌と宿る鬼気は、その言葉によって証明されたようなものであった。


「あなたほどの妖がどうして、今になってここに」


「帝都のみならず、既に各地においてこの国に住まう妖は姿を消しております……その上、何やら妖を狩る者までいるという始末」


 それで、山を捨てたというのか。


「そして、我を慕う武者と共に……この地へ」


 舞は沙嶺に一瞥を向けると、両手をついて躰を伏せるように一礼する。


「何卒、帝都へ急ぎ参じてくださいますよう、重ねてお願い申し上げます」


「えっ、急いでって……どういうこと!?」


 唐突の展開に、雅はどうすればよいのか分からずにいる様子であった。ただ目の前で頭を下げる妖に、まごついた視線を向けるだけ。


「武蔵野の地に敷かれた神仏の結界は、解かれたからといって以前の様子に戻るというものではありません」


 青龍、白虎、朱雀。三つの結界は既に東享から失われた。


「それまで頭を押さえつけられ、ただ悠久の懐柔を強いられていた、武蔵野の地霊が……今や、その瘴気を噴き上げております」


 結界は人にとっての安寧を齎すためだけのもの。それによって封じられた妖らは、結界の力を憎みこそすれ、決して受け入れたわけではない。


「頭を上げてくれ、妖の姫」


 沙嶺は膝をそろえて正座したまま、きつと見えぬ目で舞を見据える。


「ここで動くことは得策ではない。まずはあなたの知る、帝都の様子を聞かせてくれ」


「まずは、武蔵野の地霊って奴の正体を教えてくれよ」


 焼け残った柱にもたれて座る圭太郎に、舞は深い絶望に満ちた瞳を向けた。


「それは……関八州かんはっしゅうに君臨した新皇、平将門たいらのまさかど


 数多くの為政者がその地を欲しつつも、ついには鑟川家康の代になるまでは武蔵野の地を治めることは出来なかった。それが、当時の京から遠く離れた場所であったとしても、無数の支配態勢は短命でその役割を終えている。


 平将門、源頼朝、江戸氏、太田道灌、そして鑟川家康、家光と天海上人。数多の覇者が欲したこの地には、武蔵野の地霊が眠っていたからではないのか。連綿と続く歴史の中で、この地は欲されながらも、統治するに見合った為政者であることを、地霊と化した将門は虎視眈々と狙っていたのだ。


 そして天海の予言どおり、水戸を出身とする将軍の鑟川慶喜によって幕府は解体。文明開化とされるこの時代こそが、長らく将門を押さえつけていた力が最も弱まる瞬間でもあったのだろう。


「今や、帝都は魑魅魍魎の跋扈する魔界であります……将門の暴れ狂う瘴気に狂った妖どもが支配し、既に大半の者らは東享を捨てて逃げましたが……逃げ遅れた者らはほとんどが、魔物の顎にかかっております」


 この地が崩れた事により、東享が受けた霊的被害は甚大なものになっているということか。東享に残してきた知人がいる者は、今となってはただその無事を祈ることしか出来ぬ。


「何卒」


 舞は言葉を切り、そして再び頭を下げた。


「武蔵野の地霊だけであれば、我等力のある妖らが結集すれば如何様にも押さえ込めるのでありましょう……しかし、事はそれだけではないのです」


 そして、舞は決定的とも言える一言を口にした。


「我等の知らぬ術を用いる者らが、混乱に乗じ、帝都の全ての凶方凶相を開こうとしているのであります」


 その言葉を聞いた宝慈は、力任せに傷ついた拳を傍らの床板に叩きつけた。あの時、八幡を覆う結界を担っておきながら、雷撃によってあっさりと破られてしまった不甲斐なさを思い出し、臓腑を抉られる思いが身を蝕む。


 日頃温和な宝慈がそこまで憤慨する様子に、宝慈をよく知らぬ者は呆気に取られて見つめるばかり。


「いいでしょう」


 頭の中で事情を整理していた北斗が、はっきりと首を縦に振った。


「このまま放置していては、確実に帝都は魔都となります。我等土御門の一門が隆盛を誇っていた時代ならいざ知らず、今の政府は自らの首を締める条例の数々で、窮地に追い込まれている現状だ」


 立ち上がり、雨の止み掛けた空を仰ぐ。


「政府の為ではありません……我等の国を騙まし討ちにした、あの舶来の術師らに一矢を報いねば、気が済まない」


「おうよ!」


 足と腹筋の力だけで飛び上がるようにして立ち上がった圭太郎は、北斗の横まで駆け寄っていく。


「あんちゃん、いい事言うじゃねえか」


「同感!」


「先代が親父だっていう娘の前で、俺が逃げたらしめしがつかねえや」


 雅と綾瀬は顔を見合わせ、勢いよく互いの掌を打ち合わせる。


 無言のまま、その言葉を追う沙嶺。


 無論、異論はない。しかし今の沙嶺には、彼等のように沸き起こる士気を確かめ合うことは出来なかった。


 それがどうしてなのかは分からない。自分があの輪の中に入っていけるものか。


 別に圭太郎の言葉に影響されたわけではないだろう。


 それならば、この疎外感は何だ。


 舞はそんな各々の反応をただ見守っているだけだ。


 今なら。


 ずっと気になっていたことを、今なら聞けるはずだ。


 意を決し、沙嶺が腰を上げようとした時であった。


 以前に感じたことのある気配が、ふわりとその場に重ねられた。

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