第三部  帝都、囲篭れり。

間章ⅩⅩ<異能者>

 その青年が入ってきたとき、部屋の空気には確かに雑多な音が紛れ込んだようなざわめきが響いていた。


 音を聞き取ることができるほどはっきりとはしておらず、そして会話の妨げになるほど大きくはない。しかし常に一定の音量で掻き乱される静寂は、確実に部屋にいる者の神経の一部に常に不快な緊張を帯びさせておくものであった。


「いらっしゃい」


 黒いドレス、白い肌、そして血の色をした唇。


 横濱に屋敷を構えている、商社の隠れ蓑を纏って日本という国を狙う女、アリシア・ミラーカであった。


 ただ、その事実は一般の人間が知りようはずもない。知っているのは、帝都の霊的破壊を目の当たりにし、その細部までを知る一握りの術師らのみ。


 開国と共に舶来の品々を持ち寄り、日本の経済資本にしっかりと痕跡を残すに足る影響力を持つミラーカ商会の取締役というヴェールは、いつしかアリシアにとって既にあまり価値のないものになっていた。


 四方守護の結界のうち、西の結界をエフィリムが破壊したことにより、帝都の霊的位相は確実に変化していた。横濱はまだその影響が強いとはいえぬが、それも時間の問題であろう。


 一つ確実なことは、帝都東享は既に人の住む都ではなくなっている、ということだ。


 アリシアに招かれ、青年はさらに歩を進める。


 精悍な顔立ちの、白いシャツと紺色のスーツというフォーマルな服装をした青年は、静かにアリシアの瞳を受け止める。


「はじめまして、ミスター・ロートシルト」


「こちらこそ、レディ・ミラーカ……噂は信ずるに足らぬというが、例外という言葉の意味を改めて知ることになりました」


 青年は胸に手を当て、頭を下げる。


 その動きで青年の周囲の空間が揺れ、まるでカーテンが揺らめくように一瞬だけ、青年の傍らに立つ愛らしいドレス姿の少女が見えた。


 青年の名は、シャトー・ロートシルト。


 英吉利の名家の出身でありながら、ファーストネームに仏蘭西語の「城」を意味する言葉を持つ奇妙な青年であった。


 劇作家を父に持つシャトーは、母親がフランス人であり、そしていささか特殊な経歴を持った女性であった。母親はフランスのマルセイユでは知らぬ者がいないとまで言われた霊媒師であり、その特異な能力が二人を出会わせる契機でもあった。


 元々オカルティックなものに対しても関心を示していた劇作家はそうして妻として彼女を迎えたのであるが、二人の間に設けられた子がシャトーであったのである。


 母親はシャトーを身篭ると、誰もその部屋に近づかせないようにしていた。その中で何が行われていたのかは知る由もないが、そうして出産を無事終えたとき、母親は霊的な能力の全てを失っていた。そして、シャトーはまるで母親の力を受け継いだかのように、幼少時から類稀な霊能力を身につけていたのだ。


 生まれ落ちたその瞬間に、母親は乳飲み子を覆う美しい光を見たことから、その光が我が子を護ってくれるようにと「城」を意味する名をつけることを強く望んだ。


 「城」の光はシャトーが成長するにつれて、彼の敏感すぎる精神を保護する生来の結界となり、彼はその中で母親から様々なことを学び、習得していったのであった。


「複雑な挨拶は省きます……その方が、あなたにとっても都合がいいのでしょう?」


「ご好意、感謝いたします」


 アリシアはゆっくりと歩きながら窓辺にもたれ、外の景色に視線を飛ばす。


「私たちは、これより東享の中心にある、皇城に霊的戦争を仕掛けます」


「では、私に協力しろと」


「ええ」


 アリシアは先を続ける。


「もちろん、あなたにはあなたの事情がおありでしょう。しかし、この国には怨霊と呼ばれる、特殊な霊存在がいることはご存知かしら」


「無論」


 部屋のざわめきが、一瞬増したかのように思われる。


「では、あなたの行動が明確に我々の妨害にならないのであれば、あなたの如何なる行動をも認めましょう。その代わり、最低限……皇城の結界を破る時点まで、協力してくれることを条件に」


 シャトーはそのままの姿勢で、しばし考えに浸っていた。


 そして数分が経過するころ、シャトーは閉じていた瞼を押し開き、はっきりと頷いた。


「交渉は成立ね」


「はい」


 にこりと微笑むその姿は、一見すれば屈託の無い笑顔にも見えた。


 だが。


「嬉しいわ……でも、この国で今まで、あなたは何をしていたの?」


「お知りになりたいのですか」


 シャトーの顔から、ゆっくりと笑みが消える。


 それに応じ、周囲の空間が陽炎のように歪みを見せた。


 まず最初に姿を現したのは、黒く太い縄が幾重にもシャトーの躰を取り巻いているものであった。


 次いで白い衣を着た、髪の長い大和撫子。


 最後にはシャトーの周囲でゆらゆらと震える青白い灯火が宙に浮いており、その中には人の顔が浮かんでは消える。


 しかしそれだけではなかった。


 先刻、刹那だけ姿を現した少女と初老の紳士、それを始めとした十二の霊体がぐるりと取り囲む。その異様な光景に、壁際で二人のやり取りを見ていた風のエノク術師のサミュエル・リンドバーグが息を飲んだ。


「極東の地の神霊の調査と……捕獲、使役をしておりました故、遅れましたことをお詫び申し上げます」

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