第二十章第二節<七曜>

 意識を取り戻した宝慈が最初に感じたのは、肌を打つ大粒の雨であった。


 衣に包まれていない首、手、腕、そしてぐっしょりと濡れて密着した法衣の上で雨粒が踊る今しがた湖の底から掬い上げられた水死体のように、宝慈の全身の中で濡れておらぬ部分など無かった。


 次いで感じるのは、鈍い痛み。指の先が通常の二倍ほどにも腫れあがっているのではないかと思わせるほどに疼き、波を伴って痛みは強弱を繰り返す。


 混濁している意識は、まるで大雨の最中の池のように乱れていた。


 無数の雨粒に打たれ、鏡のように凪いだ水面が泡立ち、揺れているが如きに。


 それでも起き上がることを諦め、右手だけを前に差し出したままの姿勢で思考だけを働かせる。


 そうだ。俺は西の結界を守る為に、天沼八幡へと参じていたのだ。


 その地で出会った西洋の術師二人と、圧倒的な魔力を操る妖しげな女と出会い。


 俺の指の痛みは、結界を破られたときの傷。ここで倒れていたのは、女に向かっていったときに弾き飛ばされたからだ。


 それでは、俺は天沼八幡を守ることはできなかったのか。妖らが死力を尽くして守ろうとした、帝都を囲む西の聖獣を模した結界は失われたのか。


 認めたくは無い。しかし認めざるを得ないだろう。今こうして、自分が気を失ったままに倒れていることが事実を物語っている。


 命があるだけましということか。


 無論、あのときの術師らにとって見れば昏倒している自分を殺すことなど訳はなかったはずだ。


 情けか。それとも、絶望を味わわせる為か。


 宝慈は曲げられたままの左腕を伸ばし、ゆっくりと力を入れた。


 節々が痛み、躰が上げる悲鳴を感じつつも身を起こす。持ち上げられた顔に冷たい雨粒がかかる感触と共に、視界が霞み、そして瞬きと共に晴れた。


「……」


 宝慈は石段の方を見たまま、動けずにいた。


「宝慈」


 名を呼ぶ声がする。


 目の前には、あの夜に分かれた筈の友の姿があった。沙嶺と圭太郎は、雨の中ただ呆然として、炭と化した八幡の社を見つめていた。


 


「あんちゃん」


 沙嶺の傍らから脱兎の如く飛び出してきた圭太郎は、上体を起こした宝慈にしがみついた。


 逞しい胸に手を回し、肩に顔を埋め、嗚咽を漏らす。その部分だけを、今までとは違う暖かい雫が濡らす。


 しゃくりあげる声と共に謝罪の言葉を繰り返す圭太郎の頭に、宝慈は手を当てる。


「元気そうで、よかったなあ」


 涙をこぼすその姿からは、高野の隠し僧という印象はまるで無い。不動明王の力をその身に宿した奇妙な星の元に生を受けた、宿命の少年は、宝慈に縋ってただ泣きじゃくるのみ。


 頭を撫で、背を軽く叩き、宝慈は沙嶺に視線を戻した。


「……すまない、遅れた」


「謝らんでも、沙嶺が悪いわけじゃあない」


 北斗、綾瀬、雅。どれもが鳥居の脇の木陰に横になっている。


 沙嶺と圭太郎が手当てをしてくれたのか。


「しかし……」


 今回の一件で、自分たちと相手との力量差をまざまざと見せ付けられることになるとは。


 宝慈は顔を上に向けると、間断なく降り注ぐ雨粒を浴びる。


「雅にはああ言ったが……今回こそは、敵わんかもしれないなあ」


「……え?」


 意外なほどに弱気な宝慈の一言に、圭太郎が驚いて躰を離す。


 目を閉じたまま雨粒を浴びる宝慈の頬を、雨とも涙ともつかぬ雫が伝う。


 その姿勢のまま、宝慈は仰向けに倒れて見せた。


「東享は……日本は、どうなってしまうんかなあ」


 沙嶺は、それに答えることが出来ない。いや、その問いに答えられる者など、いようはずもない。


「阿闍梨には申し訳ないことを、したなあ」


 そもそも帝都行きを命じたのは曼華経最高僧の位を持つ、六法界斎蓮阿闍梨。


 この状況を察しているのだとすれば、阿闍梨は何をしておられるのだ。このままでは、帝都は。


 



「まだです」


 唐突に響いた女の声。


 はっとなる三人の視線の先には、声の主がいた。


 土砂降りの中、気配すら感じさせずに現れた主は、今の時代には不釣合いなほどに美しい重ね衣を纏った女。まるで宮中の御簾越しにしか見ることのできぬ、貴族の麗人の如き風貌と、反するほどに強い眼差しとを併せ持つ女。


「七曜が集いました。まだ、戦いは終わってはおりませぬ」


 沙嶺、宝慈、そして圭太郎。


 三人は素早く、女が人間ではないことを見抜いていた。


 非実体の、魂魄だけを飛ばすことが出来る、妖。その像に重なるようにして、三人は鬼の瘴気が刹那揺れるのを、確かに見た。








                                第二部 完

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