第二十章第一節<エフィリム・アルファロッド>

 凄まじい光量の爆発が、頭上で起きた。


 息を接ぐ間もなく、大気をびりびりと震撼させるほどの雷鳴が轟く。


 振り仰ぐ宝慈は、その目でしかと見た。


 天沼八幡上空にのみ沸き起こる、局地的な雷雲を。星空の一角にだけ出現した、不吉な淀みはその腹の中で幾度も雷の明滅と放電現象を繰り返している。


 そのうちの一つが、たった今弾けたのだ。


 先程までは晴れ渡っていた空で、このようなことが起きるはずがない。視線をユリシーズとルスティアラに戻すも、二人が何かの呪術をかけた気配は無かった。


 では、一体誰が。


 その詮索は長くは続かなかった。


 再び轟いた雷鳴は、今度は凄まじい衝撃音と爆光を伴って、はっきりとした破壊エネルギーの塊を思うままに降り注がせたのである。


 狙いは八幡の本殿。その一撃は結界に阻まれて直撃することはなかった、が。


「ぐぅっ」


 喉が痙攣したような声を漏らし、宝慈が膝をつく。


 金属音が響き、傍らの石段に抱えていた錫杖が落ちた。ぽたりぽたりと滴る黒い染みが、宝慈の顎の下の石段を汚す。


 見れば印は解け、結ばれていた指の爪の幾つかが割れ、鮮血が掌までを濡らしている。


 直撃こそ避けられたものの、あの雷撃で宝慈の結界は跡形も無く消し飛んでいた。


 背を向けていた北斗もまた、弾かれたように振り向く。


 自分の下に続く石段を、何者かがゆっくりと上ってきているのだ。


 あの雷撃は恐らく、その人物の呪術によるものだろう。しかしそのような呪術が現存するものか。


 いや、あれだけの正確な稲妻を落せるだけの力を持つ呪術師が、生き残っているというのか。


 こつこつと足音だけが聞こえてくるのだが、北斗の感覚には闇の向こうに燃えるような激しい魔力の塊を捉えていた。


 視線を外すことが出来ない。このままでは後ろから狙われてしまうと分かっていながら、動くことが出来ない。全身の運動神経が、麻痺してしまったかのように今の姿勢を取り続けようとしている。


 刹那でも動くことに注意を向ければ、自分はあの者に殺されるだろう。


「誰、ですかッ……!」


 かろうじて喉の奥から声を発することが精一杯だった。しかしそれすら不要な筋肉の緊張に阻まれ、滑稽なほどに歪んだものになってしまっていた。


 そして、闇が晴れる。


 正確には、より視認することが出来る距離にまで、相手が近づいて来たのであるが。


 短く刈った黒髪とは対照的な裾の長い長衣を翻しながら、一人の女がゆっくりと近づいてくる。切れ長の瞳でじっと見据えてくる視線そのものがまるで束縛の魔術となったかのように、北斗は動けずにいた。


「西の結界ともなれば……さすがに抵抗も激しいわね」


 驚くべきは、その言葉から西洋術師らに与する者でありながら、ユリシーズとルスティアラですら顔を畏怖と混乱に歪めていることであった。


 同胞であればこそ、このような表情は似つかわしくないはずだ。


 女は北斗を凝視しながら、そこには一欠片の感情をも込めぬ虚ろな視線を向けている。


 氷のように冷たくもあり、秘めた激情は焔の如きでもあり。白紙に描くことの出来る幻想は千変万化。それ故に北斗の精神は、無意識のうちに女の感情を仮想に設定し、緊張を繰り返す。


 頬を一筋の汗が伝う。その感覚が、北斗に無音の束縛を退かせる契機となった。


「天為我父地為我母、在六合中南斗北斗……」


「遅いわ」


 北斗の四縦五横呪をものともせずに、沸き起こる霊力の渦を突き破って女は北斗の喉をむんずと掴んだ。


 気管を圧迫され、言葉が途切れる北斗を女は細腕とは思えぬほどの膂力で投じる。長衣から伸びた腕はまるで紙くずを背後に放るように北斗を階段の下へと投げつけたのである。


 傾斜があるとはいえ、優に数メートルを吹き飛ばされ、激しく石の段差に躰を打ちつけられる。背骨が折られれば半身不随ともなるであろう、致命的な傷にもなろう。全身を揺さぶる衝撃にうめき身を丸める北斗に、女は手を突き出した。


「我精霊に命ず、契約に基づき灼熱の力、我に与えん」


 女の掌で紅蓮の光が踊り、火球を形成する。


 それを見た北斗は、驚愕に支配されそうになる精神を叱咤し、渾身の力をこめて叫んだ。


「青龍文王朱雀除道、玄武三妙……」


「ふん」


 女は容赦など欠片もない魔力を喚起し、炎を北斗へ放った。


「白虎玉女六合ッ!!」


 腕が閃き、手刀で九字を切る。


 迫り来る炎から逃げられないのならば、災厄を祓い霊的防禦に頼むのみ。


 最後の一閃を斜めに切ると同時に、巨大な炎の塊が北斗に着弾した。息も出来ぬほどの灼熱に包まれつつ、北斗の身固めの術は確かに功を奏していた。薄れ行く意識の中、北斗は宝慈の身を案じつつ、振り上げた腕を力無く落とした。




 目の前で凄まじい魔術を見せられ、驚いたのは宝慈だけではなかった。


 あのような術は、我々とて知らぬ。エノク言語を操り元素魔術を修めた自分たちですら、あのタイミングと速度というのは不可能だ。自分たちですら、今日の魔術戦闘に向けて事前の儀式と浄身、そして五芒召喚という前段階の準備を経てやっと、なのである。


 声を出すまでも無く口を開閉するルスティアラは、この場ではっきりと悟った。


 エフィリムは、自分たちとは違うのだと。


 あれはまさに異界の魔術。自分の持つ魔力、知識、観念力、精神支配技術、どれをとっても遠くは及ばぬ。普通の人間が準備に時間をかけ、やっと成功させることの数十倍の成果を、エフィリムは事も無げに成し遂げられるのだ。


 そして、思う。あれは人ではない、と。


「さて、そこの僧侶」


 錫杖もまともに持てぬ宝慈の前に、エフィリムは到達した。


「お前たちにもう、勝ち目は無いわ……見なさい」


 すいと腕を伸ばし、ぱちんと指を鳴らす。まるで魔術鏡の中での光景のように現実の空間が歪み、そこから何かがどさりと落下する。


 はっとなる宝慈。


 それは意識を失い、微動だにしない綾瀬と雅であった。

「ぬ……」


「命は奪ってはいないわ……だけど次に会うことがあれば、容赦はしない」


 指環を無数に嵌めた腕で、天を指す。


「天沼八幡の結界は失われ、残るは冥府への門たる玄武のみ……くく、帝都など奈落に落ちるがいいわッ!」


 宝慈には抵抗する術がない。


 圧倒的な力を見せ付けられ、がくりと顔を伏せようとした瞬間。


 エフィリムに縋りつく、何かがあった。


 それは先刻の雷撃で強い魔力を浴び、倒れていた神木の霊の童。


 八幡を包む結界を破られた時点で、その力のほとんどが失われていたはずなのに。瞳のない顔でエフィリムを睨み、唇を噛み締め、最後の抵抗を試みる。


 だが、それが何の役にも立たぬことは、明らかであった。


「古の城にて眠りし雷精よ、我古き印もて閉ざされし門を叩く者なり」


 エフィリムはそのまま、魔術を唱えていた。


 あれだけの雷撃を起こさせるだけの魔力の渦に巻き込まれれば、力の弱い妖など一溜まりもない。血塗れの指で錫を掴み、宝慈はむくりと身を起こす。


「我が声に応じ暗く猛き宮殿にて我命ずるままに」


「やめろ……ッ!!」


 渾身の力で、エフィリムの喉目掛けて錫を突き出す。


 だがその抵抗も、エフィリムを包む不可思議な壁に阻まれ、宝慈はそのまま鳥居の向こうまで弾かれる。


 そして。


 


「数多の者に、裁きの雷を与えん」

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