第十九章第三節<行法、結界>
雅が姿を消したのは、何者かの妨害であることは間違いが無かった。
不意を討ち、捕らえた相手が雅の手に負えるものなのかどうか。
だがその心配をしている時間はないのだ。見る間に追い込まれていく事態の中、宝慈と北斗にはどうすることもできない。
圭太郎を追った沙嶺が合流してくる可能性は限りなく薄い。
ならば、西洋術師を撃ち倒した綾瀬が追いついてくるか。それとも雅が自力で窮地を脱し、合流してくるか。
その二つに賭けるしか、道は無いのだ。
「跳ぶぞお」
「ええ」
八幡の森からは凄まじい霊力が感じられる。このまま走ったとしても、結界を破壊しようとしている西洋術師らの背後に出てしまうことになる。
それならば、一人は結界のもとへと辿り着いたほうが得策だ。
錫に体重を預け、気合と共に宝慈が天空へと舞い上がった。法衣をなびかせつつも天を駆けるその姿は、さながら天狗を思い起こさせるほどに雄々しく、力強い。
宝慈に一瞥を加えると、北斗は森へと続く参道の階段に到達する。
その場に達し、そして初めて緊張のあまりに身を固くする。砂利を敷いた参道への入り口には、無数の狐の死体が野ざらしのままに転げられていたからであった。
それが単なる野生の狐ではないことはすぐに分かる。動物が年を重ねるという行為は、人におけるそれとは比べ物にならぬほどに苦しく、辛く、そして果てしないものである。
己を守るには己の力しか頼りに出来ず、食べ、眠り、生きる。長い時間を生きるということは、それだけ生きるための執念を己の肉体に刻むという行為に他ならぬ。そして生きる為に捕食されたものたちの量は、寿命に応じて多くなる。
己の鍛え抜かれた強靭な精神が隅々まで行き渡った肉体に、衣のように捕食された数々の動植物や昆虫などの念が集積した結果が、動物を中核とした妖の基本形態なのであった。
これだけの妖狐の力をもってしても、西洋術師らを退けることは出来なかったのか。このまま手をこまねいていれば、こやつ等の死は全くの無駄死にということになる。
弔い合戦か。そう考えて、北斗は自嘲気味の声を漏らして微笑んだ。
妖の弔い合戦を、人がするというのか。
妖のために、墨曜術師が戦うというのか。
『これを見れば……先代はどう思うでしょうね』
墨曜道とは、世の理を陰と陽から理解し、占い、その調和をもたらすことを目的としたものであったはずだ。
古来、人の力は今よりももっと弱かった。そして妖との境界線は限りなく薄かった。
墨曜道によってその境界線を明確にし、妖を追い返し、そして人を守る。
それが朝廷にも認められた、墨曜術師らの使命ではなかったのか。
かつては術によって退けたものらと力を合わせるなど。
妖の寿命は人よりも遥かに長いと聞く。もしや先代らの術によって傷つき、追われ、この森に身を隠している妖もいるかも知れぬ。そうした者らの眼から見れば、今の私の行動は何と不可解なものと笑われるかも知れぬ。
しかし、私は愚か者にはなりたくはないのだ。
踏み出した足にぐっと力をこめ、北斗は階段を駆け上がっていく。
目前に、微かに人の気配があった。
錫を両手で掲げ、膝を軽く曲げるようにして宝慈は遥か上空から参道の終着点へと落ちていく。
樹々の小枝をへし折りながら、宝慈は見た。
石組みの鳥居の柱のそれぞれの前に立つ、貧しい衣を着た女の童を。あまりにも場違いな光景ではあったが、宝慈の目にはその童もまた妖であることが知れていた。
頭上から響く奇妙な音に、童の一人が振り仰いだとき、同時に二人の間に宝慈が着地する。
唐突に姿を現した人に驚きを隠せないでいる童の妖を尻目に、宝慈は自分のすぐ前に西洋術師らの姿を認める。
時間がない。背後に張られている結界は、既にかなり力を削がれている状態だ。
錫を肩にもたせかけると、宝慈は素早く結印する。人差し指と小指、親指の腹を合わせ、そのまま中指と薬指を交差させて突き出す印、金剛橛。
「
宝慈の印が淡い光を放つと同時に、八幡の社を囲む形で幾筋もの光が立ち上る。
攻撃の隙は与えない。すぐさま宝慈は印を組替える。
掌を上に向け、左右の指を互いに交差させつつ複雑に組んだ、金剛墻と呼ばれる結印だ。
これにより、先刻の真言とあわせ、曼華経法による結界が完成する。
「
最後の一音と同時に光の柱は輪郭を薄れさせ、巨大な結界が空間を満たす。
印をそのままに、宝慈は傍らの童がじっとこちらを見つめていることに気付き、目を開く。
「お前たち、ここに住んどるんかあ?」
童は何も語らず、参道のすぐ脇に生えている巨木を指差した。注連縄がかかっているそれは、充分に神木となるに相応しい姿であった。
「お社さん、護ってくれたんだなあ……遅れてすまん」
柔和な顔をくしゃくしゃにして笑いかける視界の隅に、石段を上りきった人影が見えた。
複数、ということは北斗ではない。いきなり出現した結界に驚いて向かった先に現れた異国の僧に、西洋術師らも一瞬、動きを止める。
「……そこで何をしている」
「好きにはさせんということさあ」
問い掛けてくるユリシーズに、宝慈はいささかも怯まぬ眼力を叩きつける。
それは、普段の温和な宝慈からは想像も出来ぬほどに、鋭い気迫に満ちたものであった。ユリシーズの傍らに寄り添うようにして立つルスティアラは、天を仰ぐようにして今しがた宝慈の張った結界を眺める。
「もう少しだったのに……遊びすぎたってことかしら?」
「仕方がない」
二人の迎撃に際し、アレクセイとレオを分離させたために今は二人だけになってしまっている。
「ここは俺たちだけで何とかせねば」
数多の妖を滅してきたとはいえ、微塵も揺らぐ気配も無い幻視剱を構え、ユリシーズがエノクの詠唱に入ろうとしたときであった。
妖艶な微笑みが緊張によってかき消され、ルスティアラはくるりとこちらに背を向けると魔術言語を紡いだ。
「
「百鬼を避け凶災を蕩えッ! 急々如律令ッ!!」
凛とした北斗の声が詠唱に重なる。
眼前に掲げた幻視杯から溢れる清浄な水流が石段の幅一杯に広がる水の障壁を生み出す。
そこに北斗が放った紙片が次々に突き刺さるようにして接触し、水流の中をさらに突き進むようにしてこちらへと向かってくる。
北斗の投じたものを間近に見て、ルスティアラは背筋に悪寒を感じた。
それは、着物を着た人の姿に切り抜いた和紙であった。しかしそれだけではなく、その胸に当たる部位には赤く晴明紋が描かれている。それがただの朱墨ではなく、人の血であることをルスティアラは逸早く見抜いていた。
自分の指先を噛み破った北斗は、咒を封じた撫で物を放ち接触させることで、一時的にではあれ西洋術師らの魔術を封じようとしたのであった。
眼前には結界を司る、宝慈。後方には手練れの墨曜道師、北斗。
挟撃されることになったユリシーズとルスティアラが進退窮まった、その瞬間。
闇は、真昼の如くに払われた。
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