第十九章第一節<魂径幻術>
妖狐の一団と共に、帝都を離れ杉並の天沼八幡に向かう一行は、恐るべき速度での移動を続けていた。
たとえ道中で人と擦れ違ったとしても、相手には強い風が傍らを吹き抜けていったとしか感じられぬに違いない。
馬車を遥かに凌ぐ速度で駆け抜けているために、既に周囲には人家も疎らになってきている。あと数分も走れば、天沼八幡に到着できる。
先陣を切る狐からそう伝達され、各自の顔に緊張が走ったそのときであった。
宝慈の腕に抱かれたままの狐が、ぴくんと身を震わせて黒い鼻を上に向け、そして耳を瞬かせた。すぐ横を疾走していたもう一匹の狐が、その異変に気付く。
「気が」
隣の狐もまた、同じことを感じたようであった。
「八幡を囲む気が分かれ、こちらに向かってきます……!」
奇妙なのは、これだけの速度を出しておきながら、耳元で鳴り響くであろう風鳴りの一切が聞こえないということであった。それでいて、通常の聴覚はしっかりと機能している。現実にこうしたやりとりは、殊更に声を張り上げる事無くやってのけているのだから。
そこにどのようなものが作用しているのかは分からなかったが、疑問に考えている暇はなかった。
それにしても、八幡を囲む気が分かれるというのは如何なる現象か。狐たちの声の調子から、それが我々の側にとって有益なものではないことはすぐに分かった。
「私たちの接近が感付かれたんでしょうね」
やや先を行く北斗が、こちらに短く視線を送る。
となれば、西洋術師らが迎撃に転じたというのか。
だが、それは気の分裂という感覚でしか認識できない。相手が何人で、うち何人が向かってきているのか。これを無視すれば、恐らく八幡に到着した時点で挟撃される恐れもある。また移動中に追撃される可能性も出てくるだろう。
だからといって、ここで人員を裂く選択を間違えば、各個撃破の的にもなりうるだろう。
「あと、どのくらいで出会うんだ」
「数秒後には、交差する場所です」
時間がない。そう察し、問いを発した綾瀬は、さらに移動速度を倍化した。
「俺が残ろう」
果たして、その言葉が狐や仲間たちに届いたのかどうか。
一気に仲間を追い抜いた綾瀬の視界に、髭を生やした西洋人が一人、こちらを向いて立っているのが見えた。
感じるのは凄まじい霊気。呪術を操らぬ綾瀬にも、それは殺気に変換されて感じ取ることが出来た。
視認した綾瀬は速度を急激に落とし、腰まではある草むらの中に降り立った。
一呼吸をおいて、対峙する二人の周囲のあちこちから草が踏みしめられる音が聞こえてくる。だがそれは一瞬のこと、すぐに周囲は静寂に戻る。
仲間たちは無事に八幡へと向かっていった。
それを狙い撃つような真似をあの男がする素振りも無い。
湿気を含んだ風が、髭の男と綾瀬の髪を揺らして吹き抜けていく。ばたばたとそよぐ綾瀬の着流しとは対照的に、きっちりと着込んだスーツは一部も乱れる隙はない。男は唇を歪め、手を胸に当てて綾瀬に向かって会釈をした。
「我が名はアレクセイ・ファイアクレスト。名を聞こうか、異邦人よ」
耳に届く言葉は、流れるような旋律によって構成された異国の言葉。しかしその意味は手に取るように、綾瀬の頭に閃いてくる。
千里駆けを可能にした、あの妖の術のせいか。
「梅沢綾瀬……普通の侍だと思うと怪我するぜ?」
「ほう」
アレクセイは息を吐くと、指を懐に忍ばせる。
「しかし、人である以上は精神を持つ。精神を持つ以上、俺の術からは逃れられぬ」
抜き出したのは一枚のタロットカード。綾瀬に向けられているのは黒く塗られた背面の為、それを窺い知ることは出来ぬ。
だが膨れ上がってくる霊気の流れに、綾瀬は柄に手をやった。
何かそれ以上、おかしな真似をすれば綾瀬は踏み込み、容赦の無い斬撃を繰り出すつもりでいた。しかしそれが、綾瀬の犯した致命的なミスであったのだ。
「汝、天軍の指揮者であり万軍の君臨者よ! 我が欲するところを成さんが為、その導きと祝福を我に!」
西洋のみならず、東洋の呪術にも造詣の浅い綾瀬でなくとも、誰が予想しえただろうか。カードの絵柄自体を媒体として、自分の想像力を駆使した幻像の中に精神を投射し、それをさらに現実のものとして二重の視覚化を操る幻術という、亜流の魔術を。
それが魂径への一時的な瞑想に入るための自己催眠の詠唱だと気付ける者がどれだけいただろうか。
はっとなる綾瀬の前で、アレクセイの周囲から吹き上がってくる霊気が収斂し、渦を巻き、何かの形を取ろうとし始める。
アレクセイは手を伸ばすと、その靄の中に手首までを差し入れた。そして無造作に腕を引けば、それだけで何も無い虚空から黄金の十字杖を取り出したではないか。
幻術に用いたカードは、タロットの五枚目である<
「は……たかが杖じゃねえか!」
杖と刀では、どちらに分があるか。
棒術を修めた武術家ならまだしも、アレクセイにそうした心得があるようにも見えぬ。
柄を握って引くと、鞘から僅かに刀身が引き出される。アレクセイの呼び出した魔力に抵抗するように、綾瀬の全身を斬妖の太刀の霊気が覆う。それを逸早く感じ取ったアレクセイは、今度こそ感嘆の声を漏らした。
「……そういうことか」
これだけ強い剱気を持つ武器など、一介の侍には扱いきれぬ代物だ。武器の発する気配や力に影響され、己の培って来た呼吸や勘、そして感覚までもが狂わされ、恐らくは満足な立ち回りすらできずに終わるだろう。それを使いこなすには武器の力を凌ぐ精神力と強い魂魄、それらをもって武器を支配し、主と認めさせる。
漏れ出でる力に振り回されるのではなく、それを己の力として活用する。そうした修行が出来ぬからこそ、太刀と呼ばれる特殊な武具を扱う者は、古来より天皇直属の特務武官集団、
重い霧のように、草むらの中に蟠る剱気をものともせず、綾瀬は太刀<胡蝶>を抜き払った。
夜の闇の中でも淡く光るその刀身は、決して月光を反射しているだけではない。
太刀の力、童子斬の力。どちらが欠けても満足な結果は出せない代わりに、その両者が統合されたときには、補って余りあるだけの力を発揮する。
じっとりと汗ばんでくる気温だというのに、アレクセイは総毛立つ感覚を覚えた。
相手にとって不足は無い。
「聖なる五芒星の導きをもて、汝の力を知らしめよ……偉大なる司祭、コスモクラトール・ミトラ!」
地面と垂直になるように杖を構え、アレクセイが力の喚起に入る。
その一見無防備にも見える相手に、綾瀬は鍛えぬかれた脚力で一気に間合いを詰めていく。
ほぼ一瞬で太刀の間合いに入った綾瀬は、初太刀から容赦の無い腰溜めの斬撃を繰り出した。真横に一閃することで、これが入れば脆弱な杖ごとアレクセイの腹を真一文字に掻き切ることが出来る。
踏み込みは充分。生半可な刀であれば、間合いが深すぎれば当然、刃は相手の背骨に当たって必要以上の損傷を生むことになるが。
綾瀬の技量と太刀があれば、相手の骨格ごと両断できることになる。当然、致死の太刀筋をもって当たることが可能になる。
だがアレクセイにも策はあった。刃が迫る瞬間、切り裂かれるであろう脇腹に滑り込んだ太刀に伝わって来たのは、凄まじい衝撃であった。
折れ飛ぶのではないかと思わせるほどの力で弾かれ、肘までの筋肉が刹那、弛緩しかけるほどの震動がびりびりと骨に響く。
「く……ッ!?」
「我を護れ」
その一言と共に、アレクセイは緩やかな動作で杖を振るう。
その動きとは裏腹に、綾瀬にもたらされたのは丸太を打ち付けられたかのような威力の打撃。軽々と吹き飛ばされつつも受身を取り、着地と共に起き上がる綾瀬は、胸に鈍い痛みを感じ、視線を落す。
なんと鎖骨から胸にかけ、広い範囲で紫色に変色しているではないか。
「やるじゃねえか」
不敵に笑うアレクセイの指の中で、十字杖の柄にぴしりと亀裂が走った。
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