間章ⅩⅧ<黒き使者>

 闇に満たされた浅草寺の境内を、ゆっくりと進む影があった。


 影、という呼称は相応しくは無いだろう。何故ならそれは、周囲の闇さえも圧倒するほどの黒さと深さを持っていたのだから。


 たとえ月の無い夜であったとしても、その影はしっかりと見ることが出来る。


 およそこの世に一条の光すらない空間など、存在しないだろう。僅かでも光があれば、それだけ闇は薄れ、退く。この影と同化を望むならば、完璧な闇というものを造り出さねば叶わぬだろう。


 玉砂利の上を、音も無く滑りつつ移動する影。


 既に霊域が破壊され、そして帝都には少しずつではあったが妖が出没できるようにはなっていた。それも、力の弱い、雑多な霊どもが。


 影が近寄ると、闇の中で金属的な声と共に低級な妖たちが逃げ惑い、悲鳴を上げる。直感的にその影の異様さを感じているということもあったが、何より違うのはその霊格であった。逃げ遅れた妖のすぐ脇を影が擦り抜けただけで、剛毛を生やしたその醜悪な体躯を妖は露にし、そして苦悶にのたうち始める。


 そもそも、神気の残滓を喰らっているはずであった妖どもは、あまりに強烈な魔力を浴び、拒絶反応を起こしているのであった。如何に空腹を感じている者であっても、胃袋に収まりきらぬ量の食事を強要されれば健康を害し、悪くすれば命を落すのと同じことである。自らの許容量を遥かに越えた魔力を受け、すぐに妖は動かなくなり、ぶすぶすとどす黒い体液を漏らしながら溶け崩れていく。


 ばさり、と黒い外套がはためいた。


 影の中から、翻った動きだけが物質として生み出される。ついで長い黒髪。腰まではあろうかと思われる、艶やかな髪が、今しがた解かれたかのように背で揺れる。


 移動を行いながら、等身大の影はいつしか黒い長衣を纏った一人の女性と化していた。


 左側を長い髪に隠されている為に、女の顔の全てを見ることが出来なかったが、それは幸いというものであっただろう。肉厚の唇は艶やかに光り、背筋に汗が伝うほどに艶かしい。きめの細かい肌は白く、滑らかであり、そして造作は言うまでも無く芸術のように美しい。深淵を思わせる瞳は、まさに視線を吸い込み、絡め、奪い去るような錯覚を起こさせる。


 やや俯き加減に直立していたその女の耳に、本来ならばありえぬはずの音が聞こえてきたのは、それから少ししてのことであった。


 かつん……かつん……


 固い石組みの廊下を、ブーツか革靴などを履いた者が立てる足音。


 さらに言葉を加えるならば、音は奇妙に歪み、反響を起こしていた。


 室外であれば、その周囲に壁が張り巡らされでもせぬ限り、音が響き渡ることは無いはずだ。それなのに、音は実際に空気の震動となって、女の耳に届いた。


 音は背後から。


 振り向く事無く音を聞いていた女の唇が、笑みに引き伸ばされた。


 かつん。


 靴音が止まり、そして背後に気配が現れた。


 女を追っているものか、それとも偶々遭遇したものか。


 気配の主は男。カーキ色の外套を纏っているために、シルエットは女のそれとほぼ変わらぬ。


 しかしその色彩から、男が着込んでいる服装が日本陸軍のものであることは一目で知れた。


 左胸に縫いとめられた、黒い刺繍糸の五芒星を除けば。





「何をしに来たの?」


 口を開いたのは女の方が先であった。


「不思議な殿方ね……これまで出会ったどの男とも、違う雰囲気を持ってる」


 男はそれには答えず、外套の下から右腕を現した。袖から伸びているはずの五指は、黒い手袋に覆われていた。


「芝居は止めろ、トランシルヴァニアの夜后」


 低く、それでいて明瞭に紡がれた男の声はしたたかに女を打った。


 大きく息を吸い込み、女は肘までの黒いレースと絹の手袋を嵌めた指で、自分の唇をなぞる。淫らな吐息すら聞こえて来そうなほどに唾液に濡れる歯と舌を見せ、そして呟く。


夜の眷属ミディアンズ……それが貴方の名ね」


「日本陸軍陰陽将校、八咫妙見」


 くっくっと、女は笑いを漏らす。


「その名を意味する者が、私を除いてどれだけいると思って?」


 つまり、その名を名乗る意味は私をおいて他に無い。私に自分の存在を知らしめる為だけに、その名を使っているということ。


「それが、貴方の方から姿を現してくれるなんて」


「勘違いをするな」


 妙見と名乗った男は、女の背後でぞわりと殺気を放ち始める。


 闇色をした、湿った土の薫すら纏わせる、独特の殺気。それは、まさに。


「同族の恥を、捨て置けぬだけだ」


 いつの間に握っていたのか、妙見の手には武骨でいて巨大な銃が握られていた。


 躊躇いも無く、妙見は引き金を引く。


 その瞬間に起きた現象は、仮に人が見たならば如何様にその目に映ったか。


 銃口から弾丸が射出された瞬間までは、女は確かにその場所にいた。しかし発射した弾丸が女の後頭部を貫通すると思えた刹那、その場所から女は消えたのだ。


 代わりに残っているのは黒い霧であり、弾丸はその只中を僅かに霧を散らしただけで貫通していく。


 だが妙見の意識は正確に女の移動を知覚していた。


 伸ばされた右腕に寄り添う形で、つい先刻まで眼前で背を向けていた女がいた。まさに、銃器を扱う者にとっての最大の死角に。


「その銃の所為ね、この世界がざわめいているのは?」


 咄嗟に攻撃態勢に移れない妙見に、女は腕を閃かせた。


 細腕とは思えぬほどの力の平手打ちに、妙見の躰がもんどりうって吹き飛ぶ。


 しかしそのまま、飛ばされつつも妙見は宙空にて体勢を快復、銃撃を再度放つ。


 今度は、女は姿を消すことは無かった。


 その代わりに左手を一閃させ、にやりと微笑むと掌を下に向け、指を開く。


 信じられぬことに、ばらばらと今しがた放った銃弾が砕けたまま、握られていたのだ。この至近距離で、傷を負う事も無く銃弾を受け止められる人間などいようはずもない。衝撃を何らかの手段で相殺できたとしても、高速で射出される摩擦によって火傷が生じてしまうはずなのに。


「私にかまってくれるのは嬉しいけれど、それだけに目を奪われることがないようにね」


 女が腕を振ると、黒い外套が膨れ上がるように舞い広がる。


「<芹奈>はまだ……動いているのかしら?」





 女の言葉が終わらぬうちに、妙見から物質化した殺気が放たれる。


 玉砂利を四散するほどに激しく、女のいた場所に衝撃を加えたそれは、ちりちりと光を発しつつ、徐々に消えていく。


 大きく息を吸い込んだ妙見は、銃を懐にしまうと闇の中に浮かぶ社屋を見上げ、呟いた。


「この霊場、いつまでこのままにしておくつもりなのだ……」

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