第十八章第五節<飯綱>

 沙嶺が目白不動に到着すると時を同じくして、場所は下谷区根岸町。


 人気の無い通りを歩いている、派手な着流しを着た男がいた。腕を組みながらゆったりと歩いているようにも見えるその男は、外見とは裏腹に鋭い視線を夜空へと向け、唇を真一文字に結んだまま。


 吉原に居を構え、悠々とその日暮らしを愉しんでいた男、高坂光照であった。


 長い髪は今日は纏めてはおらず、流れ落ちるに任せているのみ。男とは思えぬほどの整った顔立ちで、光照はほうと溜め息を吐いた。


 一時間前、何やら得体の知れぬ焦燥感を感じ、吉原を飛び出してきた光照ではあったが、どうやら思い過ごしのようであった。落胆を隠せず、そしてまた何事も無かったという事実にはやはり安堵に胸を撫で下ろし、帰路に着こうと踵を返したときであった。


 光照の全身を、腹の底から突き上げるような悪寒と震えが襲った。


 思わず両腕で己を抱きすくめるような格好のまま、光照は前屈みになって歯を食い縛る。


 その正体が、突如として沸き起こって来た恐怖感であることを、光照は直感で見抜いていた。そうでなくては、この残暑の折に震えが止まらぬなどということはありえない。光照は己の精神を鎮める為にゆっくりと息を吐きつつ、腰に吊った刀の柄に手をやった。


 珠の汗を浮かせたまま、血の気の失せた唇から荒い息を吐く光照は、両足の力が抜けそうになりながらもなんとか膝をつくことだけは免れ。


 そしてはっと顔を上げた先、往来の闇の向こうに、何かの気配を感じた。


 人ではない。恐らく、自分にここまでの恐怖と動揺を生じせしめた相手だ。


 はらりと顔にかかる髪を払おうともせず、光照は闇を見つめる。


 聞こえずとも、気配はわかる。見えずとも、呼吸は見える。


 闇がその濃度をぐっと増した、その刹那。


 そこから飛び掛ってきたのは、沙嶺を襲撃したあの襤褸を纏った影。


 光照はそれを一目で、西洋の書物の中にあった死神と結び付けていた。襤褸を纏った髑髏が手に武器を携え、生ある者の命を刈る。


 その一瞬で、光照は躰を回転させ、右側面を影に対峙させた。膨れ上がる剱気を体内に溜め、左手で刀の鞘を掴んでぐっと引き上げる。同時に右手で握った柄を引き出し、呼気と共に迫り来る影に向かって一閃を繰り出した。


 影の持つ闇色の短刀と光照の刀とが触れ合い、反発し、凄まじい負荷が肩までを襲う。重い手応えに、それでも光照は踏み出した足に体重を移し、渾身の力で刀を振り払った。


 板塀に陰の残滓が散り、どろりとした飛沫を残す。その居合だけで、襲い掛かってきた影は撃退が出来たようであった。


「誰だい!?」


 このようなものを、自分に放つとは。


 吉原の用心棒ともあれば、恨まれずに仕事をしろというほうが無理な相談だ。しかし、魔物をもって襲われるともなれば話は別。


「てめェ……また俺の邪魔、か?」


 聞き覚えのある声であった。


 夜闇の中から、肘までを血染めにしたスーツを着込んだ男が現れた。肌の色は、まるで生者とは思えぬまでに白い。短く刈った髪にもまるで艶は無く、ぎろりとした病的な眼差しで光照を見据えていた。


 乾いた血が指先から肘までを、淀んだ茶色に染め抜いた男。


 目白不動で、僧等を殲滅し、影を放ったあの男であった。


 その姿を目の当たりにした光照の顔が、驚愕に満ちる。


 あの渾身の居合を繰り出したときの、剃刀のような緊迫感は既に、ない。笑いとも痙攣ともつかぬ震えに小刻みに躰を揺らしていた男は、やがてきつと光照を見据える。


「くそがァ……!」


 背後の闇が再び蠢いた。


 やはり、先刻の影を放ったのはあいつか。再び刀で迎え撃とうと構えるが、はっとして光照は己の武器を見やる。


 一撃目の負荷が、刀を予想以上に酷使していたようであった。刀身を打ちとめる楔がぐらぐらと緩み、とてもではないが力を刃に伝えることは出来ない。


 忌々しげに舌を打ち、鞘に戻す。


「観念しても許さねえよ……ッ!」


 ばっと両腕を広げる男の背中から、無数の影が飛び出してくる。


 刀を失った光照は、しかし逃げようとはせぬ。懐に左手を差し入れ、右手を眼前に翳す。


「千里万里を駆け馳せ、肉を食み骨を齧りて参れ」


 懐から取り出したのは、短い竹の筒。奇妙なのは、その一端は節によって塞がれているものの、反対側には和紙が張って封をしているのだ。


「枯野の暮れにむせぶ声よ、天の御蔭日の御蔭と隠り坐せ、出でよ」


 光照は指を伸ばし、和紙を爪で破る。


 その瞬間、竹筒が爆発したかのような衝撃が走った。


 間合いをぎりぎりまで詰めていた影たちは、既に回避が出来ないまでに迫っていたのだ。光照を中心に風が巻き起こり、それに取り込まれた影は見るも無惨に切り裂かれ、散っていく。そうでないものも、風を巻き起こした白い尾を持つ狐の牙に捕らえられ、噛み殺されていった。


 驚いたのは、影を放った男のほうであった。刀を封じ、勝利を確信していただけに、光照の用いた奇妙な対抗手段を予想できなかったのだ。


「てめ……なんだ、それは……」


「君にはまだ言ってなかったね。見てのとおり、僕は飯綱使いの家系なんだよ」


 苦悶に顔を歪ませ、男は砕けるかと思えるほどに歯を軋らせる。


「下民の分際で、調子に乗りやがるなァァ!」


 ざ、と道に手をつくと、男はまるで翼が生えてでもいるかのように宙に飛び上がった。


「正光!!」


 名を呼び、あとを追おうとするが、既に男の姿は無い。残された光照は、竹の筒を握り締め、ただ俯いているほかに、道は無かった。

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