第十八章第四節<集いし宿星>

 影の魔物を殲滅した沙嶺は、炎に満たされた本堂へと向かって歩いた。


 その中に、業火の渦巻く中に、圭太郎は本当にいるのだろうか。


 沙嶺の見ている前で、燃え盛る炎の中で朽ちていく建材は次々と折れ、倒れ、床に当たっては砕け、新たな火の粉を散らせている。


 恐らく、堂は小一時間とかからずに全焼するだろう。堂の中において、火の影響を受けていない場所など、ありはしないはずだ。ここまでの火勢にまで成長するとすれば、火が放たれてからかなりの時間が経過している。中の人間は生き延びることはできぬだろうし、またたとえ助けに入ったとしても火と煙に巻かれ、力尽きるのが関の山だ。


 しかし、沙嶺はさらに歩を進めた。


 朽ちかけた段差を昇り、足の下で軋みを上げる床板を介する素振りも無く、ゆっくりとではあるが躊躇えることなく、火の壁が踊り狂う中へと歩いていく。


 激しく燃える炎を間近に感じ、通常なら息苦しさを感じるはずであった。炎によって空気中の酸素はぎりぎりまで消費され、さらに煙が充満している所為で呼吸は妨げられているはずだ。


 さらには熱せられた空気は吸い込んだだけで、体温を上昇させるだけでなく、喉を焼き、肺を炙る。これに毒の煙の吸引も加わり、通常であればすぐにでも気を失ってしまう。


 とてもではないが、他人を助ける余裕などない。


 沙嶺の歩みがついに炎の領域にまで達する。草鞋が、まだぶすぶすと黒い煙を上げている床板を踏みしめたときであった。


 突如として吹き込んできた風に炎が煽られ、さらに酸素が充分にある外気を受け、火勢がさらに強まる。不気味な唸りを上げ、まるで龍のようにその身を渦巻かせる炎が、沙嶺の衣を包み込む。


 だが、草鞋も法衣も、炎の舌で舐られつつも燃え上がることは無かった。まるで炎それ自体が存在せぬように、沙嶺は微塵も怯む様子を見せず、がらがらと崩れ行く中を闊歩していく。


 何かに導かれるように、沙嶺は歩を進め、そして本堂に到達する。


 そこは、既に全てのものが炎に包まれ、輪郭すら見えぬほどであった。全ての梁、柱は曲線的な炎に彩られ、全てが流動的に蠢く幻想的な光景が広がっていた。赤、黄、橙と全ての色彩が刻一刻と変化していく中、中央に配された不動明王像は彫刻による装飾ではない、正真正銘本物の炎が取り囲んでいる。


 その中ですら、かっと憤怒の相のまま、倶利迦羅の剱を握り締めている雄姿があった。そして像の足下には、煤となった建材が折り重なるようにしてうずたかく積まれていた。


「そこか、圭太郎」


 確かに、沙嶺の目は見えぬはずであった。しかし、梁の下敷きとなった部分より僅かに、人の手が覗いていたのだ。


 見えぬはずが、沙嶺の足は真っ直ぐにその方向に向かっていく。


 眼前に燃え盛っていた炎を通り過ぎた歳にも、沙嶺はまったく炎熱を感じていないようであった。


 そしてあと少しで圭太郎の下へと辿り着くというとき、沙嶺の足が止まった。


 いや、止めさせられたと言うべきか。


 圭太郎が倒れているすぐ横には、それまでは影も形も無かった人影がすっくと立っていたのだ。


 黄金の甲冑を纏い、瞳の無い目でじっとこちらを見据えている。あまりにも表情というものを欠いた顔からは、その人影の意図というものが全く知れぬ。


 その気配を感じ、沙嶺は足を止めたのだ。


 彼の感覚は、すぐにその気配が人のものではないことを看破していた。


 同時に、強く感じられる霊力。圭太郎の修めた曼華経の呪法の中でも、もっとも自家薬籠中としているもの、不動明王呪によるものであった。


 明王に付き従う、二体の童子。それを護法として侍らせ、圭太郎は自分自身の最後の守りとしていたのだ。


 護法は沙嶺を見据え、そして次には揺らぎ、消えた。


「……圭太郎」


 ふっと、それまで張り詰めていた沙嶺の気が散った。がくりと膝をつき、そして手探りで圭太郎の手を掴み、名を呼ぶ。


「くそッ」


 沙嶺は手を伸ばし、積み重なる煤けた梁を押しのけていく。一つ一つにはそれなりの重量もあり、ただ押しのけるだけでもかなりの労力を費やさせるものであったが。


 それでもほどなく、額から血を流して倒れる圭太郎が姿を現した。


「圭太郎ッ!」


 沙嶺は圭太郎の手首を取り、脈がまだあることを確認する。


 まだ息はある。ほっと安堵の息を吐き、そしてここから脱出するために圭太郎を背負おうとしたときであった。


 掠れた声のようなものが、聞こえたような気がした。


 轟々と唸りを上げる炎の只中、恐らく常人であれば聞き逃していただろう。しかし視力を失っていた沙嶺の、鋭敏な聴覚はそれをしっかりと受け止めた。


「……あんちゃん」


「話すのは後だ。行くぞ」


 手を引こうとする沙嶺の肘の裏に、圭太郎は弱々しく手を当てた。それが意味するものが分からず、沙嶺の動きが止まる。


「俺……よくわかんないんだよ」


 何のことを言っているのかよく分からない。背後で凄まじい音を立てて、何とか天井を支えていた柱の一つが折れ、砕けた。


「俺の力って、生まれたときからあったらしいんだ……だから、あんちゃんや宝慈の兄ちゃんみたく、修行をして手に入れたものなんじゃない」


 その話が、今の状況と何の関係があるのか。


「圭太郎、それは」


「今」


 ぐっと、当てられた指に力がこもる。


「今、聞いて欲しいんだ」


 躰を起こし、沙嶺の方に顔を近づける。


「法力ってな、修行を積んだ人間しか使いこなせるもんじゃない、そういう話を俺はずっと、高野の爺さんたちから聞かされてきたんだ」


 声に、寂しげな響きが含まれていく。


「だけど、あいつらは分かってねえんだ……じゃあ生まれつき力を持ってる俺は、こんな力を持つ資格なんざねえってのかよ」


 圭太郎の声が低く震えていた。


「俺だって、好きで持ってるんじゃねえ、気がついたらあったんだ。そんなことも分からないで、好き放題言いやがって!」


 生まれもって法力に似た力を授けられていたと言う話は、聞かぬでもない。しかしそうした者は皆、寓話の中で菩薩か明王の生まれ変わりとして、聖人君主となったという話ばかりである。生きた一人の人間が、誰しも悩みや迷いを何一つ持たず、悟りを開くことが出来るほど、人は強い生き物ではないのだ。


「だから、俺たちから離れたのか」


「……うん」


 圭太郎は迷いながらも頷いた。


「俺は、あんちゃんたちみたいに、修行を積んでないから……だから、力を持っちゃいけないんじゃないかって……」


 沙嶺はそれには答えず、当てられた手をぐっと握り返した。


「迷いを断ち切るために、全ての力はあるものだ」


 そうしておいて、沙嶺は躰を揺らして圭太郎を背負った。


「俺たちは、集うべくして集ったのだ。高野の星見が運命を違えたことなどない……ならば、お前にはお前の役割と言うものがあるってことだ」


 呆気に取られる圭太郎の指が、沙嶺の法衣を力強く握る。指がかすかに震えていた。圭太郎の額が首筋に当てられ、そして確かな温もりが伝わってくる。押し殺したような声が、食い縛った圭太郎の唇を割って漏れる。


「帝都を守る戦はまだ終わってなんかいない。それを成し遂げるまで、俺たちを悲しませるようなことはするな」

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