第十八章第三節<軍荼利明王呪>

 轟々と唸りを上げながら、天空を焦がすほどの炎の柱が揺れている。


 月も星も、目の前の圧倒的な光を放つ炎に遮られ、見ることが出来ない。漆黒の天空に火の粉が揺れては散り、残像が瞼の裏にしっかりと焼きつくほどに炎は屹立し、生き物のように咆哮する。


 辺りは、紅一色に染め上げられていた。目が痛くなるほどの赤と、息が出来ぬほどの熱気。離れた場所にいながら、まるで自分がこの地獄絵図の中に取り込まれてしまったかのような迫力を持って圧倒してくる。




 豊島の目白不動尊が、燃えていた。


 だが不思議なことに、これだけの火災であるにもかかわらず、誰一人として騒ぐものがいないのだ。


 警官は愚か、野次馬一人いないというのは如何なる状況か。


 その夜の街を、沙嶺は恐るべき速度で疾走していた。いや、跳躍していると言う方が正しいか。


 およそ常人の脚力では到底成し得ないほどの跳躍の飛距離と高度をもって、往来から屋根、屋根から壁へと移り、跳び、駆ける。たとえ修験の山駆けなどで鍛えているとはいえ、痩身の沙嶺の何処にそのような強靭な肉体と、凄まじい膂力を生み出す筋肉があったのかと思えるほどである。


 しかし現実に、沙嶺は駆けていた。


 びょうびょうと風が耳元でなり、長い銀の髪が激しく揺れ乱れる。


 そして、瞼は依然として閉じたまま。盲であるが故にそれは当然ともいえたが、それではこれほど激しい運動と方向感覚、そして周囲の状況の観察と判断は如何にして行っているのか。


 曼華経僧の黒の法衣をたなびかせ、沙嶺が駒込を過ぎる辺りで、火災の炎の光は天を染め上げていた。


 桜田門を出発してからここまで、僅かに十分。たとえ馬車を飛ばしたとしても、この時間で距離を稼ぐことは出来ない。


 しゃん、と錫杖の金環を鳴らしながら、沙嶺は一度足を止めた。吹き上がり、うねり、全てを灰に帰すその炎は、まるで地脈を突き破って暴れる龍脈の姿のようであった。


 その光景は、沙嶺には見えてはおらぬ。見えぬはずが、沙嶺の唇は動いた。


「結界か」


 息一つ乱さぬ声でそう呟くと、沙嶺は最後の跳躍をかけた。


 




 凄まじい熱気が、沙嶺を包む。既に本堂は炎に飲まれ、ゆっくりと影だけが朽ちていく。


 目白不動に到着した沙嶺は、そこに結界が張られていることを再確認した。その所為で、人々がこの火災を知ることが出来なかったのだ。


 しかし、何故。


 ここから、圭太郎の気配を感じ、そして次いで火災を知った。


 火を放ったのは、誰か。結界を張ったのは、何者か。


 その行為を同一人物に求めるならば、そこには悪意以外は類推できぬ。


 つまり火災を知られること無く放置すれば、火の勢いは堂内全てを焼き尽くすであろう。そして中にいるであろう圭太郎は、助けられる事無く焼け死ぬことになる。


 草鞋が踏み出されたとき、沙嶺の顔に緊張が走る。片手に錫、片手を無手にし、脇を緩く空け、身構える。


 気配だけを探ろうとしていた沙嶺に、そのとき変化が訪れたのだ。


 炎から炎へ、俊敏な動きで渡り駆ける黒い影。その数は見る間に増えていく。


 沙嶺を包むように、退路を阻むように、影はぐるりと取り囲む。


「鬼め」


 そう言うが早いか、影のうちの二つが沙嶺に向かって飛び出してきた。


 それは鬼と言うには、あまりにも形状が異なっていた。黒い襤褸布を纏った矮躯の人型。しかしその手には禍々しく尖った短刀が握られており、まるで影から分離したかのような闇色の存在であった。


 斜め前方左と、後方右。対角線を取るように突撃してくるそれに対し、沙嶺はしかし確実に動いた。


 錫を構え、石突で前方の影に向かって突きを繰り出す。握っていた短刀ごと打ち砕き、奇怪な金切り声と共にもんどりうつ影を確認する間もなく、沙嶺は無手の左の指で結印する。


おん 婀蜜哩帝あみりてぃ うん 發吨はったッ!」


 軍荼利明王呪の真言を受け、影はぼとりと落ち、苦悶しつつも塵に返る。


 一瞬で二体の影を退けた沙嶺に、最早相手は容赦をするつもりはなかった。相手に休む暇すら与えず、間断ない攻撃を開始せんとしたときであった。


 真言を紡いだ姿勢のままの、沙嶺の瞼がそっと開いた。


 決して光を視ることのない、その瞳。収斂せぬはずの瞳孔は、なんと髪と同じ銀色をしていた。


 唇が開き、ゆっくりと呼気を吐き出す。沙嶺を中心として、爆発的に霊力が高まっていく。


 それに気圧されたか、影は炎から飛び出し、炎熱を生む短刀で沙嶺を切り刻まんと襤褸を翻す。


 こぉ、と沙嶺の呼気が白く煙る。


 錫をぐるりと回して数体を打ち飛ばすと、その攻撃を掻い潜って来た何体かが沙嶺の懐に迫る。


 沙嶺はそれらに対し、素早く法衣の合わせに手を差し入れ、法具を取り出した。


 それは独鈷杵どっこしょと呼ばれるものであった。中央から両端に突き出す形でそれぞれ鋭利な突起が伸びている。握りの中央には鬼眼という球状の装飾が施されており、それを四面に配している作りになっていた。長さは二十センチほどのものであり、それを純粋な武具として扱うにはいささか小さすぎるようにも思えた。


 そして沙嶺はやはり、その切っ先を影に向けて振るおうとはしなかったのである。


「……おんッ!!」


 喝と共にぐっと独鈷杵を握り締めると、沙嶺を中心として霊力が波となって周囲に放射される。


 それの直撃を受けた影は、皆それぞれに金属的な悲鳴を上げつつも退散していく。


 だがそれでは、単に影を退けただけに過ぎぬ。沙嶺は次の瞬間、独鈷杵を影の一つに向かって投じた。


 こちらに背を向けていた影の頭部に独鈷杵は見事に命中し、真言を浴びたものと同じく、塵となって崩れていく。


 しかし独鈷杵の動きは止まらなかった。


 まるで見えぬ糸に操られているかのように、自ら影に向かって飛来し、一つずつを貫いていく。対する影には、ひとりでに向かってくる独鈷杵に対する、有効な防禦策はないようであった。


 如何なる秘術か、ものの一分で全ての影を殲滅し終えた沙嶺は、舞い戻る独鈷杵を掴み、息を吐く。


 その手の甲に、血が滴り落ちた。


 沙嶺はこの戦いで、影から一太刀も浴びてはおらぬはずである。


 はっとなる沙嶺は、それが己の目から溢れているものであることを知った。


 銀の瞳から、二筋の血の涙が頬を伝う。それを手の甲で拭うと、不思議とそれ以上は流れることは無かった。


 法具をしまい、沙嶺は燃え盛る堂に一瞥を向けると、ゆっくりとその中に足を踏み入れていった。

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