第十八章第二節<抗い>

 通常の視力では見ることすら出来ぬ幻視の剱を携えたユリシーズはゆっくりと石段を登っていく。


 その行く手を阻むように、幾度となく左右に充ち広がる深い森の中から攻め寄る猿の妖。


 既に三回もの襲撃を受けているにもかかわらず、妖はユリシーズの侵攻を食い止めることが出来ぬ。僅かに隙を突いた爪による斬撃が、頬を浅く切り裂いているのみ。その傷も大した事は無く、今や出血も止まってしまっているだけだ。


 剱から生み出される、幻の炎とエノクの神名によって喚起される魔力は、間違いようも無く、この地杉並に住まう妖を遥かに圧倒していた。


「これで終わりか……情けない」


 ユリシーズは足を止め、そして階段の下を見下ろした。


 彼に続く形で向かってくるのは、ルスティアラとアレクセイ、レオの三人。誠十朗を除く、現時点での西洋術師らが攻撃を行っている場所こそ、杉並にある天沼八幡大社であった。


 西の結界を崩せば、誠十朗の言葉によれば東享は限りなく力を弱めることとなる。それはすなわち、東洋思想において西の方角は死と不浄を意味するものであるそうなのだ。


 つまり、その方角に対する霊的防衛を失った結果、帝都は死の世界との境界線が曖昧になってしまうということであった。


 生と死の世界の均衡は、古今東西に於いてしっかりと分けられていなければならぬ禁忌の一つ。もしそれが破られようものなら、およそ神話の世界から厳然と定められて来た、大いなる世界の分断が失われることになってしまう。


 ほとんどの神話の世界に於いて、この両者の均衡を崩した者は厳しい神罰を受け、また破滅をその身に受けることとなる。


 当初はこの話に半信半疑であった四人であったが、今この場においてはその途方も無いような話の一片は、信じられるような気持ちになっていた。


 何故なら、これまでの寺社とは大きく違うものが、ここにはあったからだ。


 すなわち、妖と呼ばれる日本の国に住まう精霊の類による、妨害。


 今までの地点が都市中心部に近いためという理由も考えられるが、ことこの場所に到っては対抗勢力が強く勢力圏を主張するようになっている。それだけ、妖らによってもこの結果いは重要性を持つということか。


「第一陣は殲滅したわ」


 初回の戦闘に於いて、社の周囲を巡るように渦を巻きつつも妖自身の結界を張っていた妖狐の一団を撃退したルスティアラはにこりと微笑んだ。


「いささか物足りないような気もするが……まあいいだろう」


 アレクセイは懐に忍ばせたタロットに、スーツの上から手を当てると、深い溜め息をついた。


「これでは一方的過ぎて面白味には欠ける部分もあるとは思わんか?」


 ユリシーズは石段の下、古びた鳥居の向こうの道に折り重なるようにして倒れた狐らの屍骸をふと見やった。命を永らえることで呪力を高めていた動物霊は、しかし二度と起き上がることは無い。


「ユリシーズ」


 白い法衣に身を包んだレオが、ついとユリシーズの背後を指差した。


 濃密な妖気が、ゆっくりと石段を触手のように降りてくる。今までのような、肉体に縛られた状態での妖とは根本的に違うもの。


 ざり、ざりと石段を硬い爪で掻きながら、その妖は異形を露にした。


 牛の頭を、上から押し潰せばそう言った形になるだろうか。肉色の皮膚に覆われ、黒い剛毛が疎らに生えているその巨体は、異様に大きい眼球とめくれあがった唇から覗く黄色い歯を持っていた。くわえて四肢はごつごつと節くれだち、その先端には一本しかない爪が大きく弧を描いて支えている。


 さながら、肉を纏った蜘蛛を思わせる、醜悪な体躯を持つ妖であった。


 炎の幻視剱を携えるユリシーズを見つけると、その妖はにぃと笑った。


「ふふっ……一人ではさすがにきつそうね?」


 足を止め、じっと対峙するユリシーズの傍らに追いついたルスティアラは、視線を交える事無く話し掛ける。既にエノク召喚術は終了しており、彼女の掌には淡く光る霊水を湛えたチャリスを視覚化し終えている。


「俺が梃子摺ると思うか」


「そうじゃないわよ」


 細い肩を揺らし、ルスティアラは口元に指を当てて笑った。


 眼前の妖を見、そして刹那、瞳に光が揺れる。


「私たちの目的を忘れたわけではないでしょうに」


 二人から数段下がった位置にいたアレクセイは、タロットカードの中から一枚を抜き取り、眼前に掲げる。


「闇よ、霧よ、旅人を惑わせる数多の妖精よ、今こそ集え……汝にはいつ果てるとも知れぬ迷宮を! 我等には隠者の導きの光を!」


 アレクセイの投射幻視により、妖と二人との間に修道服を纏った老人が視覚化する。その周囲から湧き出た霧が妖を包み、眼を曇らせる。あまりに巨大な為、その全身を包み込むことは出来なかったが、そこまでの霧は必要なかった。


 <隠者ハーミット>のカードによって喚起されたイメージは、真理の探究。それを逆転させ、アレクセイは妖に対してカードの逆位置、つまり混迷の継続という影響を与えたのだ。


 突如として、己を包む魔力を帯びた霧を感じ、妖が咆哮を上げた。それ自体が長剱にも匹敵するほどの強度を持つ爪を振り回して霧を払おうとするが、無論晴れることはない。


 そしてその隙を、二人が見逃すはずも無かった。


 同時に二人の瞳から焦点が失われ、意識領域を越え、深い瞑想状態に移行する。それぞれの元素武器により、それが現時点でもっとも効果的に力を発揮できるエノク・アイティール領域にまで星幽体投射により、到達させるのだ。


O=X=L=O=P=A=Rオンツ・ロー・パール……汝、大天使の名を冠しセフィロトの小径を守護する支配者よ、我が剱に栄光を与え給え!」


M=A=T=H=V=L=Aマー・テー・へヴ・ラー、速やかなる安息と葛藤を称えし守護者、我が杯に全てを満たさしめよ!」


 残像の如く、ユリシーズの剱が炎を纏い、そして瞬時に同じサイズの幻を虚空に四つ生み出した。それぞれはまるで物質化した剱が、油を塗られて燃え盛っているかと思えるほどの現実感を持つ魔力の塊であった。


 三本の剱は、ユリシーズの意識が導くままに妖に突撃していった。霧はそれを阻む事無く、そしてこちらの動きを見失っていた妖は剱を叩き落すことは出来ぬ。


 左の眼球、前肢の付け根、そして眉間を貫いた剱に、妖は苦悶の絶叫を上げる。


 たまらずに口をかっと開き、瘴気を吐き出そうとするも、続くルスティアラの術が放たれた。


 蒼い竜巻のように杯から巻き上げられた水流が、遥か頭上から細く鋭利な槍と化して妖の躰を槍衾に刺し貫いたのだ。既に重傷を負っていた妖には、それを受けてもなお動けるだけの力は残っていなかった。


 僅か一ミリ程度の、太い針のような水流はかなりの密度で妖を狙い、みるみる霧の中でその原型を失わせていく。


 水気を含んだ肉塊と化した妖は、アレクセイの霧に包まれたままなす術も無く妖気を弱め、雲散霧消していく。


 妖が消失したことを確かめると、アレクセイは指に挟んでいたカードを翻し、再び懐へと収める。





 見上げると、石段はずっと彼方まで続いているようにも見えた。


 現実には、濃く蟠る夜の闇のせいで、そうした錯覚を起こしているだけではあったが。


 これで妖の妨害が終わるとは思えぬ。しかしこの向こうには、奴等が血眼になり、そして死出の戦に臨んでまで守ろうとしている、霊的な要所があるのだ。


 杉並、天沼八幡。それを破壊することで、東享はどうなるのか。


 一陣の風が四人を巻き、そして吹き上がっていく。


 葉擦れの音と共に、森の中から妖どもの声が聞こえる。


 行かせるな、行かせるな。なんとしても、最後の鳥居を潜らせてはならぬ。たとえ我等が死に絶えようとも。


 これまで人の手によって、脈々と継がれてきた霊的封印が、呪が薄れるよりも遥かに早い速度で失われているのだ。


 元より人と妖は、それぞれの領域において住み分けてきた。お互いがお互いを尊重しあい、そして時には交わりながら。


 だが妖もまた、人の力を頼って来たという事実もある。妖だけではどうにもならぬ事態を、法力を身につけた僧が救うと言う話はそれこそ尽きぬ。


 だからこそ、ここが失われることで日本という国がどうなってしまうのか、それを妖は恐れる。


 恐れ、守ろうとしているのだ。四つの足音が、石段を登る。


 


 そしてまた、彼等の行く手に妖気が凝った。

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