第十八章第一節<妖>

 疾風の如くに沙嶺がその場を去ったあと、残された四人は途方に暮れていた。


 梓の話で、西にも聖獣に象徴された霊的な守りがあることは分かった。そしてそれの重要性も。


 これを失ったならば、残っているのは北の守りだけだという。もっとも、物理的な防壁で無い以上、一箇所だけとはいえ効力は発揮できるだろうが、力の程は比べるべくも無い。


 そして何よりも彼等を驚愕せしめたのは、南の朱雀の喪失であった。東享湾それ自体が、地形を利用した巨大な守りであると信じていたにもかかわらず、外国船籍の船舶によって破られていたとは。


 大田道灌の手によって瑿鬥えど城の基礎的な方位呪術が完成したと同時に、かつては瑿鬥湊と呼ばれていた湾岸をも整備されたと言う歴史を持つこの場所は、それならば他国に向けて開港した時点で破壊されていた可能性が高い。


 西の結界と、熊野神社との関係点。それが明らかにならぬことには、今の彼等には動きようも無かった。急げと忠告してくれた梓の言葉すら、執拗に焦燥感を掻き立てる以外に役には立たぬ。


「……帰る、か」


 綾瀬が、まるで腹の底から絞り出したように呟く。


 何も出来なかった、何も進展がなかったという現実に対する、激しい悔いの念。袖の中で、それこそ掌に爪が食い込むほどに拳を握り締め、綾瀬は内なる炎を堪える為にゆっくりと息を吐く。


 今、こうしている間にも、奴等は西の結界を破壊しているのかもしれない。


 俺たちに分からないものが、どうして奴等には分かるのか。西洋の呪術というのは、それほどまでに優れているのか。他のあらゆる文明技術と同じく、日本の力はここでも劣っていると証明されるのか。俺たちは、ただ、本当に躰の中に自らを食い荒らす毒虫を招き入れただけの、愚かな人間なのか。


「待ってください」


 ふと、北斗の顔が空を仰いだ。


「何かが来ます……それも、恐ろしく速い……」


「ちょっ、それって何!?」


 慌てて懐の短銃に手を当てる雅。


「人ではないなあ」


 錫を握り、宝慈もまた感知したようであった。


 北斗と宝慈が反応したのであれば、それは人外の存在。それが自分たちを目指して、夜の帝都の空を駆けて来る。


 ここで戦いをすることになるのか、それとも。


 固唾を飲み、息を殺し、待つ。


 雅を中心にし、三方を囲む陣形を取り、いつでも戦闘に移行できる態勢を整える。


 しかし北斗も宝慈も、結界を張ろうとしないのは何故か。


 そう、訝しんだときであった。


 頭上から、北斗、宝慈、綾瀬に対峙する形で何かが降ってきた。はっとなる目の前で、それは姿を現した。


 女物の小袖を来た、年経た狐。纏っている衣服以外、何等変化していない、老狐であった。


 呆気に取られる三人の前で、狐は今一度、頭を垂れた。そして髭をひくつかせつつも、その喉から人語を話したのであった。


「さぞかし名のある武士、そして方術を修めし徳僧とお見受けいたします、是非御力の程を」


 声は、まるで妖艶な女のそれであった。障子か屏風の向こうから声だけを聞いたなら、恐らく狐であろうなどとは誰も思うまい。しかし声の様子から察するに、ひどく疲れきっているようにも見えた。


「何者ですか」


「我等、瑿鬥の西の森、杉並の村に住まう妖……ですが今、我等の地が心なき者たちによって奪われようとしております」


 瑿鬥の西。その言葉を耳にした瞬間、誰もが反応を見せた。


「何卒、御力を……」


 そのとき、宝慈の前にいた狐ががくりと倒れ伏す。


「人の振りをしつつ、何とか助けをと探しておりましたが……最早成す術も時間もなく……」


「西というのは、正確な場所はわかりますか」


 宝慈の腕の中で、狐は息も絶え絶えに身を横たえている。


 激しい疲弊ではあるが、衰弱するには到っていない。今すぐに自力で動くことは無理であろうが、休めば命に別状はあるまい。


「天沼八幡大社にございます」


 その名は、一瞬にして北斗を納得させるに充分過ぎるものであった。社史は十六世紀にまで遡るが、それによって瑿鬥の西に点在していた熊野は統合される力を持つことになったのだ。


 祭神は速玉之男命はやたまのおのみこと事解之男命ことさかのおのみこと。東の結界にも力を及ぼしていた結界の神。それまでが民間信仰にも似た渾然一体とした信仰形態であったものが、瑿鬥に築城する気風と共に一つの力の流れを持ち、動いたのだ。


 天沼八幡はその場所といい、建立時期といい、瑿鬥の西を守る防壁としては非の打ち所がなかったのだ。


「……そこでしたか」


 縋りつくような、狐の視線を受けつつ、北斗は頷いた。


 やっと見えた。


「その神社は、今はどのように」


「我等の知らぬ術を使う者たちによって、攻められております。我等が妖の眷属が守っておりますが、力の差は埋めうるべくも無く……」


 西洋術師らに、またも先手を打たれたか。湧き上がる痛恨の念は、しかし北斗の次の言葉によって払拭された。


「向かいましょう、八幡大社に」


「だね」


 雅は銃を帯に挟む。


「待てよお前ら、ここから大久保まで一体どれだけ離れてるか知ってんだろうが!」


「ご心配なく」


 頭領と思しき狐が歩み寄ると、西陣織の小袋を綾瀬に手渡した。


「妙薬が入っております。足にかけるだけで、韋駄天の如く野を駆ける力が備わりましょう」


「ちっ……用意がいいじゃねえか」


 言葉では舌を打ちながらも、綾瀬はにやりと笑って見せた。


 袋の中身は、妖しくも金に光る粉のようなものであった。それを四人それぞれの草鞋にかけると、中身はちょうどなくなった。


「こいつは俺が抱こうかぁ」


 片手に錫、片手に狐を抱えた宝慈が身を起こす。腕の中で狐は一度だけ目を開け、宝慈を見、そしてまた瞑った。


「忝い」


「案内は、頼みますよ」


 無論、とでもいいたげに狐は頷くと、たんと身を翻して虚空に舞い上がった。一度くるりと回転すると、頭上を真っ直ぐに尾をたなびかせつつ空を飛んでいく。


 それを追うように、四人はまさに文字通り風となり、西へと向かった。

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