間章ⅩⅦ<異教の神>
圭太郎は瞑想から現実の世界に戻ると、組んでいた足を解き、立ち上がった。
広い堂内には、依然として静寂が満たされている。しかし、空気には微かに異臭が感じられる。
夜闇の中、不動明王の雄々しき姿がぼんやりと浮かび上がるように見て取れる。圭太郎は一度明王像に視線を向けると、本堂から出るべく障子を開く。
異臭はさらに強くなった。同時に、むっとする熱気が圭太郎を包む。
一瞬、混乱する頭とは裏腹に躰は迫り来る異変に対し緊張し、そして生き延びる為の運動を促す為の興奮を掻き立てる。
火事だ。
だが奇妙なのは、人の気配が何処にも無い。自分が瞑想をしている間に、僧らは全て逃げてしまったのだろうか。
そんな筈は無い、と圭太郎はまっさきにそれを否定した。
自分がここに来ているのは、誰もが知っているはずだ。それに火事などが起きれば、身一つで逃げ出す前に大事な経文や仏像などを守ろうとするのが先だろう。
廊下を歩きつつ、圭太郎は人の気配を探ろうとするのを止めなかった。
一歩踏み出すごとに、圭太郎の胸中を不穏な空気が満たしていく。
考えたくも無い不吉な予想が、次第に現実味を帯びていく。
皆、火に巻かれて命を落としてしまったのか。既に、この寺の中で生きているのは自分一人なのだろうか。
それにしては、火の手がまだ大人しすぎる。
何もかもが、不自然だ。
生きているもの、動くものを頼りに、圭太郎が回廊に出たときであった。
視界の隅を、黒いものが素早く走り去る一瞬を神経が捉えた。それはあまりに小さく、そしてあまりに素早かった。
『なんだよ、今の』
神経がみるみる昂ぶり、指が震える。
だが圭太郎は同時に全く別の事実に気づいていた。
人の声が聞こえる。男の声で、誰かと話しているようにも、呟いているようにも聞こえる。
聞こえてくる方角を頼りに、圭太郎は走った。
元より境内はさほど広くは無い。それでも入り組んだ社屋のせいでいささか探すのに手間取りはしたが、圭太郎は結果としては本堂に戻る形となっていた。
探している間、あの黒い影は現れることは無かったが。
それでも本堂に戻った圭太郎は、あまりの驚きに一瞬、その場に射竦められたかのように棒立ちになった。
明王像の前、今しがたまで自分が瞑想をしていた場所に、一人の男がいた。見知らぬ男は見るからに高価そうな洋装に身を包み、そして片腕で僧の一人を吊り上げていた。喉を掴まれ、男の膝の辺りまで爪先が床から離れたところまで持ち上げられ、苦しそうにもがいている。
恐らくは危険を察知した僧の一人が、圭太郎に事情を知らせるべく駆けつけたのであろう。
だがそこには圭太郎はおらず、代わりにあの男がいたというわけだ。
しかし、あれは誰だ。
髪は短く、そして皮膚は病的なまでに白い。頬はこけ、見るからに虚弱そうな外見とは裏腹に、大の男を片手で吊り上げるなど、並みの膂力ではない。足掻きながら、それでも力を振り絞って戒めから逃れようとする僧の首がこちらを向き、圭太郎を認める。
瞳が大きく開き、驚愕に開かれた口が、何かを叫ぼうとした瞬間。
男の右手が手刀となって僧の左胸を貫いた。
びくりと痙攣する僧の背中から、血染めの男の指が突き出る。がくがくと揺らす僧を男は無造作に投げ捨てると、鮮血がスーツを汚すのも厭わず、ゆっくりと圭太郎に向き直った。
にやりと唇を歪めたが、ふと男は自分の右手に視線を落す。
粘つく鮮血に塗れ、嵌められていた指輪の一つが欠けていたのだろう。
忌々しげに舌を鳴らすと、それをやおら抜き取り、投げた。
硬い音を立てながら指環は板の間を転がり、転々と血の飛沫を残す。
「命堂圭太郎というのは、お前だな」
「誰だ、てめえ」
「知ったところで、死人が役立てることなどできんだろうが」
ごきり、と指を鳴らし、男はゆっくりと圭太郎に近づいてくる。
「お前を殺せば、俺はさらなる力を得ることができる……悪く思うなよ、小僧」
血に塗れた指で、男は己の額に触れる。ぬるりと顔に一文字を書くと、男の唇が小さく、何かを囁いた。
「我に力を。偉大なる伯爵、その名は
その途端、男を中心に悪寒を呼び起こすほどの魔力が渦を巻いた。先程までは大した事の無かった男の気配が、まるで妖魔と対峙しているかのような緊迫感を圭太郎に齎す。
こいつも、術師か。
圭太郎の知る術ではない。ここまでの暗い気の流れを、人が操れるものなのかと思わせるほどの、負の力。
「
不動明王呪を唱え、呪力を高めた圭太郎に、男は徒手空拳で襲い掛かってくる。
血染めの拳を振りかぶり、それに魔力を乗せて掴みかかってくる。恐らくそれを無防備に受ければ、先刻の僧のように動きを戒められてしまうのだろう。
圭太郎は自分で受けることはせず、自分と男との間の空間に護法童子を呼び出した。観想召喚から一瞬で物質化したそれは、男の拳を錫杖で見事に受け止める。
「
動きの止まった男に間髪をいれず、圭太郎の真言が向けられる。
大人であろうと、堂の反対側まで吹き飛ばすほどの衝撃波が生み出されるはずが、圭太郎の目の前で護法が揺らぎ、姿を消す。
避ける暇はなかった。真言によって生み出された調伏の力は、異教の神の力を借りる男の頬をしたたかに打ち据えてはいたが、致命傷となるには軽すぎた。
男はむんずと圭太郎の首を掴むと、獣のような咆哮を上げて投げ飛ばす。
軽々と宙を舞った圭太郎は、背中から本尊である明王像に激突し、がらがらと砕けた材木の下敷きとなって倒れ伏した。
術が破られたのではない。先刻の、圭太郎の心に渦巻いていた迷いが、圭太郎の術を本人すら知らぬ間に不完全なものとしていたのだ。
うつ伏せになったまま動かぬ圭太郎を、男は激しく肩を上下させながらやつれた顔で見守っていた。
「虫けらの分際で、この俺様にィ……」
男はなおもぶつぶつと呪詛に似た悪態を呟いていたが、やがてくるりと圭太郎に背を向ける。
気を失ったか、それとも首の骨を折って死んだか。
どちらでも、男には関係の無いことだった。
男の背後で、堂内を黒い影が無数に飛び回り始める。
影が柱や梁、天井などに触れるとその部位から炎が吹き上がり、そして見る間に堂内は火の海と化した。
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