間章ⅩⅥ<鬼の子>

 板の間に、長い影を投じていた陽光が霞み、消え、そしてさらに数刻を経る。


 本尊を正面に配した、豊島の今乗院本堂にて、圭太郎は静寂を満たした堂内で静かに観想に耽る。


 真一文字に結ばれた唇と、まるで死んでいるかと思えるほどに微動だにしない表情。まるで圭太郎の心境がそのまま、ここの空間の無音を造り出しているのかと思われるほどに、雑念が見られぬ。


 長屋をあとにした圭太郎が訪れたのは、この寺であった。


 鑟川とくがわ家光の命により、寛永年中に目白という号を受けたというこの寺は、ただの寺ではない。曼華経に象徴される、世界を形成する五つの要素、地水火風空。それらの各々に色があてがわれ、五色の不動尊がそれに呼応する形で瑿鬥えどの都に点在するという。


 そのうちの一つが、ここ豊島の目白不動なのである。


 圭太郎は結跏趺座を組み、膝の上で如来拳印を結び、梵字観想から楼閣を想起せんと意識を飛ばす。


 しかし、圭太郎の瞼の裏には、いつまで経ってもその光景は浮かび上がることはなかった。


 理由は、彼自身にもわかっていた。


 外見からは想像もつかないほどの激しい葛藤が、観想による行法を妨げているのである。肉体と精神との繋がりが、非常に希薄になっている状態ゆえ、心の嵐が肉体に現れることはない。


 一見すれば、それは眠っているにも等しいほどに静謐な瞑想の座。だが圭太郎の胸中は、櫓を失った小船のように荒波に翻弄されていた。





 躰を容赦なく打ち据える、大粒の雨。濡れそぼり、べったりと肌に張り付いた着物は、素肌から体温を奪っていく。かろうじて潜り込んだ橋桁の下でも、雨水からは逃れられなかった。


 空腹と、寒さと、寂しさと。


 じっと膝を抱える腕にも、指にも、力が入らぬ。


 降り続く雨。もう何日、口にものを入れていないのかすら思い出せない。今はただ、じっと動かずにいて、この寒さが少しでも和らいでくれるのを待つことしか出来ない。


 夜になれば朝を待つ。朝になれば、陽光を待つ。そして、願いは叶わぬまま、再び夕暮れへと時は過ぎる。


 その繰り返しを七度、繰り返した頃だろうか。既に座っていてもなお、身を起こしている力すらない圭太郎は、襤褸を纏ったまま川原に倒れ伏していた。


 そのとき、すぐ間近で砂利の鳴る音がした。


 滅多に人の訪れぬその川原で、圭太郎は首を上げようとしたが動けない。それでも微かに動く瞼を押し上げ、霞む視界をいっぱいに広げた。


 黒い人影が、圭太郎に笠を差し出していた。


 身を打つ雨は、遮られていた。声も出せぬほどに衰弱しきっていた圭太郎に、その人影は手を伸ばした。


『随分探したで、鬼の子』


 鬼の子、とその僧は圭太郎のことを呼んだ。その言葉は今に至るまで、ずっと圭太郎の胸のうちに、錆び付いた楔となって亀裂を生み続けている。


 鬼と呼ばせたその力は、生まれ落ちたそのときから、圭太郎にはあった。目を閉じれば、いつでもあの時の光景を想起することができる。


 ねばつく血溜まりがじっとりと着物に染み入るなか、へたりこんだ圭太郎の目の前が深紅に染まった。


 男たちは、己の躰からじくじくと溢れる血糊に身を浸したまま動かない。矜羯羅こんがら制咤迦せいたかの二体の童子が、瞳のない眼差しでじっとこちらを見ている。


 黄金の甲冑と、手には降魔の錫杖。


 何が起きたのか、圭太郎には知る由もない。ただ、少し離れた場所に、倒れ伏したまま動かぬ父親と母親が、奇妙にも圭太郎には見えなかった。


 一度は死のうと考えた圭太郎は、しかし己の命を断つ事が出来なかった。


 いざ崖から身を乗り出せば、足が竦み目が眩んだ。濁流を前にすれば、眩暈を感じ気を失った。


 願いはただ一つ。理解できぬ、そして周囲の人間には明らかにない不思議の力を、なんとかして手放したかった。


 だがその力を、僧は見抜いていたのだ。


 僧に拾われ、それから遥か高野山にて修行をするうちに、自分の力についての知識が少しずつ蓄えられてきた。自分の力が、法力という類のものであり、さらにそれが五大明王のうちのひとつ、不動明王とその護法童子の力であるということも。


 だが、圭太郎は迷っていた。


 自分の力は、果たして何かの役に立つものなのだろうか、と。


 北斗のように気を、地相を読むことも出来ない。綾瀬のように、剱術に長けているわけでもない。沙嶺や宝慈のように、曼華経の厳しい修行をこなし身につけた法力ではない。そして雅のように、澄んだ瞳をしているのでもない。


 たとえ親の仇とはいえ、圭太郎の手は人を殺めているのだ。


 あの朝、雅に見られなければ、あのまま長屋を後にしていた。


 これ以上、自分について彼等と共に見つめ続けることは苦痛だった。それならば、いっそのこと、姿を眩ましてしまった方がいい。


 いなくなることで、彼等に迷惑をかけることくらいはわかっている。けれど、あのまま自分がいたところで、何も変わりやしない。


 俺は一体、何のために生きているのか。もしかすると、俺はどうでもいい人間なんじゃないか。どうでもいい人間が、眠り、食い、生きるのか。


 そう考え、瞑想を解こうとしたとき。


 辺りに漂う異臭に、圭太郎はふと気付いた。

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